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ウィリアム・ウォレス
William Wallace

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
2018年12月10日公開
独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁


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◆ウィリアム・ウォレスの概要


1297年10月11日、ドイツのリューベック市長宛ての手紙に記載されていた、
ウィリアムウォレス卿の個人印。
CC BY-SA 4.0, Link



ウィリアム・ウォレス
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


スターリングにあるウォレスモニュメントのスコットランド-ステンドグラスの窓
に描かれたウィリアムウォレス
Source:Wikimedia Commons
, CC BY-SA 3.0, Link


 ウォレスは映画、Brave Heart(ブレーブ・ハート)の主人公としても世界的に有名です。


アバディーンにあるウォレスの像
出典:Wikimedia  Commons
Public Domain, Link


 ウィリアム・ウォレス(William Wallace、1270年頃 - 1305年8月23日)は、スコットランドの愛国者、騎士、軍事指導者であり、スコットランドがイングランドから最初に勝利したスコットランドの国家的な指導者であり、今なおスコットランドの英雄となっています。

 イングランド王エドワード1世の過酷なスコットランド支配に対して、スコットランド民衆の国民感情を高めて抵抗運動を行い、1297年のスターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍に勝利をおさめました。

 この戦功で「ジョン王のスコットランド王国の守護官」に任じられるも、1298年のフォルカークの戦いでイングランド軍に敗れたため、職を辞しました。

 その後も反エドワード活動を継続しましたが、スコットランド貴族の裏切りにあってエドワードに捕らえられ、残虐刑で処刑されました。しかし彼の刑死によりスコットランドの国民感情は鼓舞され、ついにはエドワードのスコットランド支配を崩壊させるに至ります。

ウィリアム・ウォレスの生涯

出自・前半生など

 ウォレスの前半生についてはほぼ不明ですが、レンフルーシャーのエルダズリーの地主マルコム・ウォレスの子とも伝わっています。

 「ウォレス」というのは「ウェルシュ」がなまったものですが、これはウェールズ人であることを意味しません。北方ゲール系ケルト人でもなく、南部キムルー・ストラスクライド系ケルト人だったことを意味しています。

抵抗運動の始まり

 記録に出てくるなかでは、1296年8月にパースで「William le Waleys」なる盗賊が現れたとあるが、これがウィリアムかどうかは確認されていません。

 ウィリアム・ウォレスの名が歴史上に出てくる確かな年代は1297年5月で、ラナークのハイ・シェリフを務めるイングランド人ウィリアム・ヘッセルリグ(William Heselrig)を殺害した事件がそれです。

 この殺害について、ウォレスの愛人マリオン・ブレイドフュートがヘッセルリグの息子を振って殺され、その復讐という伝承もありますが、実際にはイングランド式の統治を推し進めていたヘッセルリグのアサイズ(巡回裁判)に反発したスコットランド人の一団がヘッセルリグの殺害を計画・実行し、この一団にウィリアムが関わっていたものと見られています。

 ウォレスは、イングランドの過酷な統治に反発するスコットランド下級貴族・中間層・下層民の間で急速に支持を広げました。分散的だったスコットランド人の抵抗運動はウォレスの指導の下に国家的なゲリラ的抵抗の形をもって統一されていったのです。

 一方スコットランド大貴族は親イングランド的だったうえ、ウォレスを身分の低い者と軽蔑していたので、積極的な協力はしなかったといいます。

スターリング・ブリッジの戦い(別途詳細があります)


スターリング・ブリッジの戦い
出典:Wikimedia  Commons
Public Domain, Link


後のスターリング橋
出典:Wikimedia  Commons
Public Domain, Link


 スコットランド北部で抵抗運動を行うアンドルー・モレーの軍と合流し、1297年9月11日にはスターリング城近くのスターリング・ブリッジにおいて、第6代サリー伯爵ジョン・ド・ワーレン率いるイングランド軍と戦ったのです(スターリング・ブリッジの戦い)。

 兵力はイングランド軍の方が優勢であり、またイングランド軍は騎兵隊やウェールズ弓隊を擁していました。しかしウォレスはフォース川の架橋地点とその先の湿地帯が一本道になっているという地の利を生かしてイングランド軍の騎兵隊の機動力を奪い、勝利を収めることに成功しました。

 イングランド王エドワード1世が前月8月からフランス出兵でイングランドを不在にしており、直接指揮をとっていなかったとはいえ、この勝利はスコットランド人の自信を大いに高めたのです。

 この戦功でウォレスはナイトに叙され、「サー」の称号を得ました。誰がウォレスをナイトに叙したのかは判然としていませんが、イングランド側の記録には「逆賊がスコットランドの大伯爵の手で騎士に叙された」と記されています。

 当時イングランドに対して蜂起していたスコットランド伯爵はレノックス伯爵メオル・チョルイムとキャリック伯爵ロバート・ブルース(後のスコットランド王ロバート1世)の二人だけなので、そのどちらかと思われます。

 さらにセルカークにおける会議で、「ジョン王のスコットランド王国の守護官」に任じられました。

 ウォレス軍は勢いに乗ってイングランド北部ノーサンバーランドやカンバーランドに進攻した[5]。

フォルカークの戦い

 しかしウォレスの破竹の勢いも長くは続きませせんでした。彼は貴族階級から軽蔑され続け、またベイリオル家の名のもとで戦ったため、ブルース家から支持を得られませんでした。またフランスにいたエドワード1世は、ウォレス軍の勝利の報告を受けて、1298年1月に急遽フランス王フィリップ4世と講和し、イングランドに舞い戻ってきました。

 エドワード1世は破壊的な報復を開始し、ウォレスはゲリラ戦でこれに抵抗しましたが、徐々に追い詰められていき、1298年7月22日にウォレス軍はエドワード1世率いるイングランド軍とフォルカークでの野戦を余儀なくされました(フォルカークの戦い)。

 ウォレス軍は数に勝るイングランド軍を相手によく奮戦したものの、戦闘中、貴族率いる騎兵隊が一戦も交えずにウォレスを見捨てて撤退したため、ウォレスは騎兵無しで戦うことになり、決戦に持ち込めないまま、撤退を余儀なくされたのです。

 この戦いで多くの兵を失ったため、ウォレスは責任を取って「スコットランド王国の守護官」の職を辞しました。ウォレスの退任後はブルースとバデノッホ卿ジョン・コミンが同職に就任しました。

 この後の1298年から1303年にかけてのウォレスの動向はよく分かっていません。フランスやローマを訪問してエドワード1世への抵抗運動の援助を求める交渉にあたるも失敗したことのみ判明しています。

 一方フォルカークの戦いに勝利したエドワード1世は、1300年からスコットランド侵攻を繰り返し、とうとう1303年5月に制圧に成功したのです。

束縛・処刑

 ウォレスはスコットランドに帰国しましたが、エドワード1世から執拗な追撃を受けました。エドワード1世は「大逆者」ウォレスを捕らえようと血眼になり、賄賂と脅迫によってウォレスの部下たちにウォレスに対する裏切りを仕向けたのです。

 1305年8月5日、ウォレスはかつての部下だったダンバートン総督ジョン・ド・メンティスの裏切りにあってイングランドに引き渡されました。

 イングランドへ連行されたウォレスはエドワード1世への大逆罪を問われ、ウェストミンスター・ホール(Westminster Hall)で裁判にかけられました。裁判でウォレスは「自分はイングランド王に忠誠を誓ったことはなく、彼の臣民ではないので大逆罪など犯していない」と主張しましたが、有罪判決が下り、8月23日に首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑という残虐刑で処刑された。遺体の首はロンドン橋に串刺しとなり、4つに引き裂かれた胴体はイングランドとスコットランドの4つの城で晒し物とされました。


大逆罪でウェストミンスターの裁判所にかけられるウォレスを描いた絵画(ダニエル・マクリース 
出典:Wikimedia  Commons
Public Domain, Link


 エドワード1世としてはウォレスに残虐刑を課すことでスコットランドの抵抗運動を恐怖で抑えつけようという意図であったはずですが、それは成功しませんでした。逆にスコットランド国民感情を鼓舞する結果となり、幾月もたたぬうちにエドワード1世のスコットランド支配は崩れ去ることになります。


ウォレスの処刑場を標した銘板
出典:English Wikimedia  Commons

CC BY-SA 3.0, Link



エディンバラ城入り口のウォレス像
出典:English Wikimedia  Commons
CC BY 2.5, Link



ウォレスは1906年から子供の歴史本に描かれています。
出典:English Wikimedia  Commons
Public Domain, Link

 この場面は、ウォレスにスコットランド人貴族たちがBarns of Ayr.に仕掛けられた罠によって虐殺されたことを伝えている女性を描いています。この絵のもとのタイトルは「待って!待って!勇敢なウォレス様!イングランド人が貴方の優秀な兵士たちを犬のように処刑している。」というものでした。

 以下は有名なWilliam Wallace の映画 Braveheart の概要紹介(約2分)です。



Source: Braveheart: William Wallace Freedom Speech [Full HD]


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