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<ヴェスヴィオ総合メニュー> プリニウス1(人名) 小プリニウス1(人名) アタナシウス・キルヒャー マイウリ・アメデオ タキトゥス 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 ◆小プリニウス Source::Gaius Plinius Caecilius Secundus, Wikipedia イタリア北部のコモにある聖母マリア・マッジョーレ大聖堂のファサードにある小プリニス像 Source:Wikimedia Commons CC BY 3.0, Link 聖母マリア・マッジョーレ大聖堂のファサード 玄関の扉の右にあるのがガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス像 Source:Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0, Link 撮影:池田こみち Sony Cyber Shot2006年3月14日 ◆概要 正式名、ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Caecilius Secundus, 61年 - 112年)、通称小プリニウスは、帝政ローマの文人、政治家です。 小プリニウスは北イタリアのコム(現在のコモ市)生まれであり、博物学者、政治家、軍人のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)の甥で、養子です。伯父との区別のため小プリニウスと称されています。 ジャン=バティスト=カミーユ・コローが描いた1834年のコモとコモ湖 Source:Wikimedia Commons Public Domain, Link 元老院議員としてトラヤヌス帝に対して捧げた賞賛の演説『頌詞』と、紀元103年からのビティニア属州総督任期中に書かれた書簡集が作品として知られています。トラヤヌス帝の時代のキリスト教徒に対する処遇方法を知る事ができる貴重な資料となっています。 タキトゥスとは友人で、彼の求めに応じて伯父のプリニウスが死んだ日の様子を語った書簡が書簡集に含まれており、ヴェスヴィオ火山の噴火の様子を知る貴重な資料となっています。 注)・タキトゥスとは コルネリウス・タキトゥス(Cornelius Tacitus, 55年頃 - 120年頃) は、帝政期ローマの政治家、歴史家。個人名はプブリウス(Publius) ともガイウス(Gaius)ともいわれるがどちらかは不明で、通常は個人 名を除いて表記される。サルスティウス、リウィウスらとともに古代ロ ーマを代表する歴史家の一人であり、いわゆるラテン文学白銀期の 作家として知られる。その著作では、ローマ皇帝ティベリウス・カエサ ルの治世中にユダヤ総督ポンテオ・ピラトがイエス・キリストを処刑し たことも書いている。 書簡は全10巻にまとめられ、第一巻から第九巻は友人・知人あての247通からなり、第十巻は、ビテュニア・ポントゥス属州総督在任時にトラヤヌスと交わした公的書簡121通から構成されています。 伯父のプリニウスは資産家としても知られ、総額2億セステルティウスの資産があったと考えられています。古代ローマ研究者R・ダンカン・ジョーンズの研究によれば、資産者リストの21位(第三位は3億セステルティウスのセネカ)となっています。 プリニウスは、叔父のプリニウスはベスビオ火山の噴火の犠牲者を救おうとして亡くなりますが、小プリニウスはタキトゥスへの書簡集の中で、そのことを詳しく書いています。 以下は、書簡集のうち大プリニウスの死について書いたブブです。 大プリニウスの死 79年8月24日のヴェスビオス火山の噴火に遭遇したプリニウス(大プリニウス)が、その犠牲となって命を無くした経緯について、その甥で養子となった小プリニウスが書き残している。 (引用部分) 伯父は、艦隊司令官としてミセヌム(ナポリ湾の対岸)に駐在していました。災害が起こったのは、8月24日の昼下がりのことです。いつもと雲のようすが違うことに気づいた母は、伯父を呼びました。昼近くに炎天下から戻ってきた伯父は、まず水を浴びてから、ゆっくりと昼食をとり、本を読んでいるところでした。 伯父は靴をもってこさせると、眺望の良い高台に上がりました。しかし、距離が遠すぎて、どの山から煙が出ているのか見きわめられませんでした。噴煙の形は、カサマツの木によく似ていました。まず、幹が長く伸びていき、上部でいくつかに枝分かれします。 おそらく、最初の爆発の勢いで高く押し上げられたあと、爆発が弱まって下からの圧力が軽減したためでしょう。あるいは噴煙自身の重みで横に広がり、下の方が散ってしまったのもしれませんでした。土や灰の量の加減によって、白っぽい部分もあれば、黒みがかっているところもありました。伯父は持ち前の学者らしい鋭い洞察力で、すぐ近くまで行って調査すべきだと判断しました。・・・(艦隊を用意させたプリニウスは、対岸に上陸、友人の救出に向かった) ポンポニアヌス邸に入ると、伯父は恐怖に震えている友人の肩を抱き、明るく励ましました。自分が冷静でいるのを見れば、友人も少しは安心するだろうと考え、風呂に入ってから、くつろいで夕食をとりました。伯父は始終、陽気でしたが、あるいは努めてそうしていただけかもしれません。だがたとえどうだとしても、勇気のない者にはできないことです。 その間にもヴェスビオ火山のあちこちでは、夜の闇を背景にして巨大な炎のカーテンが踊っていました。伯父は友人の不安を静めるために、あれは怯えた農民の焚き火だとか、住民が逃げ出した地区の空き家が燃えているだけだと繰り返し言い聞かせました。それから伯父は眠りにつきました。 伯父は頑強な体つきで、部屋の外まで聞こえるような大いびきをかいて眠っていました。この頃伯父の部屋に面した中庭には、すでに灰や石ころがかなり積もっていました。いまのうちに逃げ出さなければ、閉じ込められてしまいます。伯父は起こされてその部屋を出て行くと、ポンポニアヌスたちが夜通し起きていた部屋に行きました。 彼らは、このまま部屋のなかにいるか、それとも思い切って賭に出て、外に逃げ出すかどうかを話し合いました。家の揺れはいっそう激しくなり、土台から崩れてしまうのではないかと思われるほどでした。・・・(結局外に逃げ出すことを決心し、頭に枕を結わえつけて落下物に備え飛びだした) 日はとっくに昇っているはずなのに、外は相変わらず暗いままでした。その暗さといったら、ふつうの夜の闇とは比べものにならないほど深く、松明やランプを点さなくてはならないほどでした。伯父は海岸に行き、船で脱出できる可能性があるかどうかを調べました。しかし波は荒く、危険な状態でした。 伯父のために地面に布が敷かれ、そこに横たわりましたが、冷たい水を何回も所望しました。やがて硫黄のような臭いが鼻をつき、炎がすぐそこまで迫ってきました。みなで伯父を立たせて逃げようとしました。伯父は二人の奴隷の手を借りて立ち上がったものの、すぐに倒れました。もうもうとした煙で気管が詰まり、呼吸ができなくなったのでしょう。 伯父はもともと気管が細くて弱く、たびたび炎症を起こしていました。8月26日、ふたたび太陽が顔を見せたとき――実に二日ぶりの光でした――伯父の体にはこれといった外傷もなく、衣服もそのままで、まるで眠っているような死に顔でした。 出典:ジョン・ケアリー編、仙名紀訳『歴史の目撃者』 小プリニウスのタキトゥス宛手紙より 1997 朝日新聞社 p.31-34 アタナシウス・キルヒャーにつづく |