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<ヴェスヴィオ総合メニュー> エルコラーノ(コムーネ) ヘルクラネウム遺跡1 ヘルクラネウム遺跡2 79年の大噴火 ヘルクラネウム(Herculāneum) 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 ヘルクラネウム(Herculāneum)の出土された家を背景にした池田こみち 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 壊滅的なヴェスヴィオ火山の噴火は、西暦79年8月24日の午後に起きました。ヴェスヴィオ火山はおよそ300年間活動を停止していたと推察され、もはや火山であるとは一般には認識されていなかったのです。しかし一部の知識人はそう遠くない昔にヴェスヴィオが噴火していたことを認識していました。 考古学的な発掘と小プリニウスが歴史学者タキトゥスに宛てた2通の手紙により噴火の経過をたどることができます。 8月27日午後1時頃、ヴェスヴィオ火山から数千メートル上空まで灰と噴石が吹き上がりました。噴出物が対流圏と成層圏の間に到達した時の噴煙の上部が平らになったその形をプリニウスはカサマツと形容しています。 風は南東向きに吹いたため噴出物は主にポンペイとその周りの地域に落下しました。ヘルクラネウムはヴェスビオ火山の西にあるので噴火の最初の段階ではあまり被害を受けませんでした。ポンペイの家々の屋根が落ちてきた噴出物の重みで潰れたのに対し、エルコラーノには灰が数センチ積もった程度でした。しかし、住民の多くはこの段階で逃げ出したのです。 初期の発掘で僅かな人骨しか発見されなかったため、住民のほぼ全てが辛くも避難したものと長い間考えられていました。 しかし、1982年に発掘が海岸のボートハウスの区域に及ぶと、この見解は改められました。考古学者たちは12のボートハウスで体を寄せ合うように群がる250もの人骨を発見しました。 夜の間、柱の様な姿で成層圏にまで達していた噴出物が、ヴェスヴィオに落下し始めました。火砕流が発生し、400℃のガス、灰、石が入り混じり、時速160kmでエルコラーノに押し寄せました。 午前1時頃火砕流はボートハウスに到達し、そこで助けを待っていた人々は猛烈な熱により瞬時に命を失ったのです。このときの火砕流とそれに続く幾度かの火砕流により噴出物が下から徐々に建物を覆ったために建物は大きく損傷しませんでした。 建物とその内部の物が非常に良い状態で保存されたのは、以下の要因によると思われます。 ①風が変わりヘルクラネウムに灰が降下するまでに建物がすでに火砕物に埋もれていたため屋根が潰れなかった。 ②最初の火砕流の熱が有機物の表面を炭化し水分を抜き去った。 ③厚く(25メートルに達する)密度の高い凝灰岩がヘルクラネウムを1700年間空気からも遮断した。 人骨が多数発見されたヘルクラネウム(Herculāneum)のボートハウス 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 Boat houses where skeletons were found 人骨が発見されたボートハウス Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる 発掘 発掘は現在のヘルクラネウムの場所で1738年に始められました。両シチリア王の後援による詳細な出版物Le Antichita di Ercolano(ヘルクラネウムの遺跡)は限られた発行部数であったにもかかわらずその頃始まっていたヨーロッパの新古典主義に非常に大きな影響を与えました。 18世紀の終わりには、装飾的な壁画から三脚テーブル、香炉、ティーカップなどの家具調度品にヘルクラネウムで見つかったデザインのモチーフが現れました。しかし、近くのポンペイの町が発見されると発掘は中断されました。 ヘルクラネウムは堆積物が20メートルもの厚さで覆っていたのに対し、ポンペイは4メートル程だったので遥かに発掘が容易だったからです。 20世紀になり、発掘が再開されましたが、大広場の複合施設をはじめとする個人及び公共の建築物は未発掘です。 人骨 火砕流は逃げ遅れた住民の命を即時に奪った。ヘルクラネウムで命を失った人々の姿はポンペイとは異なり石膏で保存はされませんでした。 1981年ジュセッペ・マギ博士の監督のもとイタリアの公共事業の作業者がヘルクラネウムで排水溝を掘っている時に遺骨を発見しました。マギ博士に促されイタリアの役人は自然人類学者のサラ・C・バイセルを発掘の指揮と遺骨の研究のためにアメリカから招いていました。この調査はナショナルジオグラフィック協会の資金により賄われました。 古代ローマ人は通常火葬を行っていたので、この発見まで学術的な研究に使用できるローマ人の骨は少なかったのです。ヘルクラネウムの港地域の発掘では、55以上の人骨(成人男性30、成人女性13、子供12)が発見されました。人骨は海辺で見つかったのです。 彼等はそこから噴火から逃れようとしていたと考えられています。この人骨の中には指に付けていた指輪から名づけられた指環の女性(Ring Lady)も含まれています。 これらの遺物の化学的分析によりバイセル博士はヘルクラネウムの住民の健康や栄養状態に関して深い知見を得ることができた。遺骨の中には高濃度の鉛が検出されるものが有り鉛中毒が疑われた[3]。骨の分析によっても新たな知識が得られた。例えば骨盤の傷跡により女性が産んだ子供の数を推測することができた。 保存の問題 ヘルクラネウムを覆った水、灰、噴石は当初襲った非常な高温と共に遺跡を1600年間非常に良い状態で保存する役割を果たしてきました。しかしながら、発掘が始まると大気に晒された遺跡は緩やかに傷み始めました。 これは遺物全ての保存よりも価値のある遺物を入手することに主眼を置くという、町の発掘の当初に取られた当時の考古学の手法ではやむをえないことでした。 1980年代初期、サラ・C・バイセル博士の指示で遺骨の保存が優先事項になりました。有機物が炭化された遺物は空気に晒されると数日の内に劣化しました。このためその保存方法が確立されるまでに多くの遺物が失われました。 今日、観光や故意の破壊により公開されている区域の多くで損傷が起きています。また、現在のエルコラーノの町から流れ込む水により多くの建物の基礎部分が侵食されています。再建の試みは逆効果になることが多かったのですが、最近の保存の努力は効果を上げています。町の保存に予算を振り向けるために現在発掘作業は一旦中断されています。 ヘルクラネウムで出土した多数の遺物が国立ナポリ考古学博物館(Museo Archeologico Nazionale di Napoli)に保管されています。 世界遺産 詳細は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」を参照 ・ヘルクラネウムとは 1へつづく <ヴェスヴィオ総合メニュー> |