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伊能忠敬と日蓮の足跡を
たどる千葉の旅
 

地図作成と伊能忠敬の死

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
Dec.11, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


千葉視察総合目次

隠居・観測・測量 一次測量(蝦夷地) 二次測量(伊豆・東日本)
三次測量(東北・日本海)、四次測量(東海・北陸)
五次測量(近畿・中国)、六次測量(四国)
七次測量(九州一次)、八次測量(九州二次)
九次測量(伊豆諸島)、十次測量(江戸府内) 
地図作成作業と伊能忠敬の死
地図の種類・特徴・精度、測定方法等
伊能忠敬記念館  伊能忠敬年表
参考・芝丸山古墳と伊能忠孝記念碑
参考・忠孝測量の碑と星座石
参考・伊能忠敬九十九里記念公園
参考・伊能忠敬参照文献一覧

伊能忠敬

地図作成作業と伊能忠敬の死


上野源空寺にある伊能忠敬墓。
左側に高橋至時・景保の墓が並んでいます
出典:Wikimesia Commons

 測量作業を終えた忠敬らは、八丁堀の屋敷で最終的な地図の作成作業にとりかかりました。文化14年(1817年)には、間宮林蔵が、忠敬が測量していなかった蝦夷地の測量データを持って現れました。また同年、忠敬は破門していた平山郡蔵を許し、作業に参加させました。


蝦夷全図
出典:」伊能忠敬記念館

 地図の作成作業は、当初は文化14年の終わりには終わらせる予定でしたが、この計画は大幅に遅れました。これは、忠敬が地図投影法の理論を詳しく知らなかったため、各地域の地図を1枚に合わせるときにうまくつながらず、その修正に手間取ったためと考えられています。

 忠敬は新しい投影法について研究し、資料を作り始めましたが、文化14年秋頃から喘息がひどくなり、病床につくようになりました。それでも文化14年いっぱいは、地図作成作業を監督したり、門弟の質問に返事を書いたりしていましたが、文政元年(1818年)になると急に体が衰えるようになりました。そして4月13日、弟子たちに見守られながら74歳で生涯を終えたのです。

伊能忠孝の死後

 地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められました。

 文政4年(1821年)、『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成しました。7月10日、景保と、忠敬の孫忠誨(ただのり、幼名三治郎)らは登城し、地図を広げて上程しました。そして9月4日、忠敬の喪が発せられました。


『大日本沿海輿地全図』
出典:」伊能忠敬記念館

 忠誨は佐原と江戸を行き来しながら、景保らの指導も受け、さらに佐原の伊能家の跡継ぎとしても期待されていましたが、文政10年(1827年)、21歳で病死しますた。忠誨の死により、忠敬直系の血筋は途絶えました。また測量隊の中には、忠敬が測量し得なかった霞ヶ浦などを測量しようという意見もありましたが、忠誨の死によりその案も立ち消えとなりました。

 忠敬は死の直前、私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげであるから、死んだ後は先生のそばで眠りたいと語りました。そのため墓地は高橋至時・景保父子と同じく上野源空寺にあります。また佐原の観福寺にも遺髪をおさめた参り墓があります。


千葉県香取市の観福寺にある伊能忠敬の墓
出典:Wikimedia Commons


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