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私が4月13日、14日にでかけた山形県の上山市は、実は養蚕、織物でも日本有数の地域であった。 4月14日、里山やめがね橋を視察した後、武田・結城夫妻に案内され、山形県上山市矢来4丁目にある蟹仙洞博物館(かいせんどう)を訪問した。 蟹仙洞博物館は、山形県の上山で製糸業を営んできた長谷川兼三氏の個人的なコレクションを展示している公益財団法人の博物館である。 蟹仙洞博物館の創立者、長谷川謙三氏は明治19年生まれ、早稲田大学を中退し実家の命で長谷川合名会社の上山長谷川製糸所を継ぐとともに「蟹仙洞」を創立したという。 長谷川謙三氏は美術品の収集とともに写真撮影にも興味をもち、自分で写真を撮りDPEをしたとのこと。その長谷川謙三氏は、昭和32年5月に亡くなっている。享年72歳。 ◆関連リンク・中国の漆工芸と日本刀の博物館 蟹仙洞 通りから見た蟹仙洞博物館(かいせんどう) 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 蔵を利用し文物を展示している 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 この博物館では、主に中国の明及び清時代の堆朱などの漆工芸品や刀剣類、武具類や美術品などが数多く収蔵されている。 蟹仙洞博物館内の中国の明及び清時代の展示 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 中国の明時代初期の代表的作品といわれる填漆の箪笥は国指定文化財である。 国指定の重要文化財や重要美術品の刀剣など約4,000点が展示されていることから見ても、展示物は全国屈指のものと言える。 当日は、公益財団法人の代表理事を務められている長谷川浩一氏がひとつひとつ文物について懇切な説明をしてくださった。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 ひな人形について説明する代表理事の長谷川浩一氏(左) 右は結城玲子氏 蟹仙洞博物館にて 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 実は、代表理事の長谷川さんの先代は、山形県で民営の製糸工場を大規模に営んできた会社を設立、運営してきた方である。生糸の織物工場は、群馬県の富岡製糸工場が有名だが、長谷川さんの先代は、山形県内で民営で大規模な工場を営んできたという。その後、工場を山形県内の高畠とここ上山に分社したそうだ。 下の写真は、その民営の製糸工場で従業員が体操をしているところの写真である。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 下の図面は、長谷川製糸工場家屋の平面図である。往事はいかに大規模な工場であったかが分かる。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 帰京後、グーグルを検索したら讀賣新聞と山形新聞の記事が出てきた。
私達は、ここ数年間、秩父事件や福島事件など、明治から大正にかけ栄えた養蚕が、その後、輸出先のフランス、アメリカなどで価格が暴落し、多くの養蚕農家が経営難に陥り、政府に反乱、一揆を起こした事件について、現地視察をしてきた。 その観点からすると、今まで養蚕、製糸、織物は、主に埼玉県の秩父〜皆野〜桐生、栃木県の足利、長野県の上田〜小海、福島県の西会津、南会津、喜多方などが本拠地と思ってきたが、山形県の南部や南東地域でも盛んに行われていたことを知った。 なお、「杉本 星子著、日本の近代製糸業とキリスト教精神・国立民族学博物館調査報告 62:71?91(2006)」によると、 「日本の絹織業は,16世紀半ばから17世紀初頭にかけて明の技術を導入し,西陣を中心に飛躍的に発展した。江戸時代,西陣の高級織物の原糸は,オランダ船や中国船によってもたらされる舶来糸に依存していた。やがて,幕府の銅貿易の衰退と1685年から実施された外国貿易制限令(貞享令),中国における生糸価格の上昇と輸出制限・禁止などによって,舶来生糸の輸入は減少した。 1713年,幕府は諸国に養蚕勧奨の触書をまわした。しかし,1717年頃まで,西陣に持ち込まれていた和糸(日本製生糸)は,美濃・近江・上州から少量あるのみであった。1720年(享保5)に丹後で縮緬生産が始まり,続いて1738年(元文3)に上州で紗綾生産が起きた。米沢藩をはじめ諸藩が,藩政改革の一環として養蚕業の振興政策をすすめた。こうして次第に地方の絹機業が盛んとなり,製糸業が各地に発達していった。」とあり、米沢藩を中心に山形もその源流のひとつとなっていたことが分かる。 ◆青山貞一:温故知新・秩父事件〜事件の概要と背景・原因 ◆青山貞一:温故知新・秩父事件〜自由民権運動と農民蜂起 ◆青山貞一・池田こみち:真夏の上信州、歴史探訪〜官製富岡製糸場 長谷川館長によると、山形の場合には、秩父、福島のような農民一揆、反乱は無かったとのことである。 |