前号のブログ(
当時の生糸の生産・流通)で、「ここで気になるのが、圧倒的に生糸の生産量が多く、秩父同様に中山間地でありながら、信州、上州でなく、なぜ武州、なかんづく秩父でかくも大きな農民蜂起が起きたのか」、ということだ述べた。
これは当時日本各地で起きていた自由民権運動と大いに関係があり、しかも秩父の農民経済の極度の悪化と政治運動が結びついたのではないかと思える。
以下はすでに述べたことであるが、その中に自由民権運動、自由党という用語また輸出先そして取引所としてのフランスが頻繁に出てくる。これらが秩父事件のもうひとつのキーワードである。
「松方財政による強硬なデフレーション政策は、繭価・米価などの農産価格の下落を招き、農村部の窮乏を招くこととなった。自由民権運動の担い手であった地主・豪農は没落するか、経営と資本の蓄積に専念せざるを得なくなり、同運動の衰退を招いた。
また一方で、このデフレーション政策に耐えうる体力を持たない一部の零細農民は、自由党(当時の自由党の基盤は農村である)の激化事件を引き起こし、反政府的な暴動を引き起こした。
窮乏した零細農は都市部に流入し工業労働力となった、官営工場の払い下げを受けた政商は財閥へと成長していった」
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さらに秩父事件の原因について次のものがある。
「江戸時代末期以来、富国強兵の大義名分のもと年々増税等が行われる中、1881年(明治14年)10月に大蔵卿に就任した松方正義によるいわゆる松方財政の影響により、現在でいうデフレスパイラルが発生し(松方デフレ)、いまだ脆弱であった日本の経済、とりわけ農業部門には深刻な不況が発生した。
農作物価格の下落が続き、元来決して裕福とはいえない農産地域の中には、さらなる困窮に陥る地域も多く見られるようになっていった。
国内的には主として上記の松方財政の影響、さらには1873年から1896年ごろにかけて存続したヨーロッパ大不況のさなかに発生した1882年のリヨン生糸取引所(同取引所はフランスのみならず、当時欧州最大の生糸取引所のひとつであった)における生糸価格の大暴落の影響により、1882年から1883年にかけて生糸の日本国内価格の大暴落が発生した。
埼玉県秩父地方は昔から養蚕が盛んであったが、当時の同地方の産業は生糸の生産にやや偏っており、さらには信州(長野県)など他の養蚕地域に比べてフランス市場との結びつきが強く(秩父郡内における最初の小学校はフランスの援助で設立され、そのために当時の在日フランス公使館の書記官が秩父を訪れたほどである)、上述の大暴落の影響をより強く受けることとなった。
養蚕農家の多くは毎年の生糸の売上げをあてにして金を借り、食料の米麦その他の生活物資等を外部から購入していたため、生糸市場の暴落と増税等が重なるとたちまち困窮の度を深め、他の各地と同様、その窮状につけこんだ銀行や高利貸等が彼らの生活をさらに悲惨なものにしていた」
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上記のうち、後半に出てくるフランスについては、
温故知新・秩父事件〜当時の生糸の生産・流通 でデータをあげ詳述した。ここでは、自由民権運動、農村部を基盤とした自由党、さらに激化事件について見てみよう。
◆明治初期の自由民権運動
自由民権運動は、明治時代の日本で行われた政治運動であり社会運動である。一般的には1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書を契機に始まったとされ、それ以降、薩長藩閥を中心とした明治政府の政治に対して以下を要求した。
@憲法制定、
A議会の開設、
B地租の軽減、
C不平等条約改正阻止、
D言論と集会の自由の保障など
この自由民権運動は1890年(明治23年)の帝国議会開設頃まで続く。
これら自由民権運動は、この時期の運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれている。
そして武力を用いる士族反乱の動きは1877年の西南戦争まで続く。士族民権は武力闘争と紙一重であった。
◆豪農民権運動
1878年(明治11年)に愛国社が再興、1880年(明治13年)の第四回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透していった。
特に各地の農村の指導者層には地租の重圧は負担であった。これにより、運動は全国民的なものとなっていった。
この時期の農村指導者層を中心にした段階の運動を豪農民権運動という。
豪農民権が自由民権運動の主体となった背景には、1876年(明治9年)地租改正反対一揆が士族反乱と結ぶことを恐れた政府による地租軽減と、西南戦争の戦費を補うために発行された不換紙幣の増発によるインフレーションにより、農民層の租税負担が減少し、政治運動を行う余裕が生じてきたことが挙げられる。
実際、交通事情が未整備な当時、各地の自由民権家との連絡や往復にはかなりの経済的余裕を必要としていた。
これら富農層が中心となった運動だけに、政治的な要求項目として民力休養・地租軽減が上位となるのは必然であった。
また、士族民権や豪農民権の他にも、都市ブルジョワ層や貧困層、博徒集団に至るまで当時の政府の方針に批判的な多種多様な立場からの参加が多く見られた。
1968年(明治元年)に東京・多摩地区の農家の土蔵から発見されて有名になった「五日市憲法」は地方における民権運動の高まりと思想的な深化を示している。
◆明治十四年政変と政党結成
これら自由民権運動の盛り上がりに対し、明治政府は讒謗律、新聞紙条例の公布は明治9年(1875年)、集会条例は明治13年(1880年)など言論弾圧の法令で対抗した。このころ参議・大隈重信は、政府内で国会の早期開設を唱えていた。 だが、明治14年(1881年)に起こった「明治十四年の政変」で、参議・伊藤博文らによって罷免された。
一方、明治政府は国会開設の必要性を認めるとともに、当面の政府批判をかわすため、10年後の国会開設を約した「国会開設の勅諭」を出した。これによって国会開設のスケジュールが具体的になった。実は、政府は10年もたてばこの運動もおさまるだろうと思っていたという。
その後、国会期成同盟第三回大会で自由党が結成され、一方政変により下野した大隈重信は翌年立憲改進党の党首となった。
「明治十四年の政変」によって、自由民権運動に好意的と見られてきた大隈をはじめとする政府内の急進派が一掃され、政府は伊藤博文を中心とする体制を固める事に成功して、結果的により強硬な運動弾圧策に乗り出す環境を整える事となった。
◆激化事件
大井憲太郎や内藤魯一など自由党内の急進派は政府の厳しい弾圧にテロや蜂起も辞さない過激な戦術をも検討していた。
また松方デフレ等で困窮した農民たちも国会開設を前に準備政党化した自由党に対し不満をつのらせていた。
こうした背景のもとに明治15年から命じ19年にかけ激化事件が頻発する。
福島事件 1882年(明治15年) 福島県
高田事件 1883年(明治16年)20日 新潟県
群馬事件 1884年(明治17年)5月 群馬県
加波山事件 1884年9月(明治17年) 栃木県
秩父事件 1884年(明治17年)11月 埼玉県
名古屋事件 1884年(明治17年)12月
飯田事件 1884年(明治17年) 長野県
大阪事件 1885年(明治18年) 大阪府
などがよく知られている。
以下に激化事件の概要を示す。
●福島事件
1882年(明治15年)、福島県の自由党員・農民が県令三島通庸の圧政に反抗した事件。喜多方事件ともいい、民権激化事件のひとつ。
三島通庸は、会津地方から新潟県、山形県、栃木県へ通じる県道(会津三方道路)の工事をさせるために人夫、または人夫賃を出させるなど、農民に大きな負担をかけた。さらに工事に従事しない者の財産を競売に出すなどした。
これがきっかけとなり県会議長河野広中を中心に自由党員や農民が団結して反対運動を展開。明治15年11月には数千人の人々が喜多方警察署におしかけ、約2000人が逮捕され、河野広中が軽禁獄7年の刑を受けるなど6名が処罰された。
また、この事件に端を発して青年自由党員が加波山事件を起こすことになる。
●群馬事件
1884年(明治17年)5月に群馬県北甘楽郡で起こった自由党急進派と農民による自由民権運動の激化事件である。
明治15年からの松方デフレにより全国的に農民は困窮し、負債で苦しんでいた。群馬県北甘楽郡でも30余の村の村民が県へ陳情する。
党本部の政府寄り姿勢に憤っていた群馬の自由党指導者・清水永三郎は、この状況を見て党勢拡大を意図し、集会などを開いて反政府感情を煽っていた。
1884年3月、清水は湯浅理平・小林安兵衛・三浦桃之助ら同志とともに、北甘楽郡周辺の農民のほか猟師・博徒も誘って政府転覆を計画する。だがこの最初の計画は4月に清水らが政府密偵謀殺容疑をかけられ他県へ逃亡したことにより一旦頓挫した。
その後、清水は上京したが、湯浅・小林・三浦はすぐに甘楽に戻り、5月始めの日本鉄道高崎駅開業式での農民蜂起を再び計画した。だが開業式が延期されたため実行されなかった。
この結果を自由党本部へ三浦が報告したが、党幹部はこれに賛同しなかった。逆に宮部襄や東京滞在中の清水に制止されている。しかし農民たちの不満は収まらず、ついに湯浅・小林・三浦らを中心に5月15日に妙義山麓陣場ヶ原で蜂起した。
映画「草の乱」より
当初の目的とは異なり、警察署や高崎鎮台分営の襲撃を目標にした。正確な蜂起人数は不明。数十名や200名また数千名という説など人数に幅がある。
群集は松井田警察分署を襲撃したが、人数不足や士気減退で高崎鎮台分営襲撃は実行されなかった。結局16日に北甘楽郡丹生村の高利貸岡部為作邸を打ちこわして蜂起は収束した。
まもなく湯浅・小林・三浦らが逮捕され、妙義山中の残党も1ヶ月ほどで逮捕されていった。最終的には湯浅・小林・三浦ら12名が有期徒刑、20人が罰金刑となった。
小規模で終わったが、貧困農民の騒動と自由党急進派が結びついた端緒であり、実際に政府転覆を目的として加波山事件などに続く武装蜂起のはじめとなった事件である。
●加波山事件
1884年9月(明治17年)に発生した栃木県令三島通庸らの暗殺未遂事件。
自由民権運動のなかで、急進的な考えを抱いた若き民権家たちが起こす。福島事件に関わった河野広体(河野広中の弟)らのグループが中心で、これに茨城の富松正安や栃木県の民権家が加わっている。
栃木県庁落成時に、民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった大臣たちを爆殺する計画であったが、鯉沼九八郎が爆弾を製造中に誤爆。計画が明らかになると、茨城県の加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」などの旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配布した。また警察署や豪商の襲撃も行なっている。
後日の再集結を約して解散するが次々に逮捕された。その後、自由党幹部である内藤魯一や田中正造・小久保喜七をはじめとして300名に及ぶとまでいわれる民権家が逮捕された。
しかし、政治犯とはならず、資金集めの際の強盗などの罪によって裁かれたため、起訴されたのは加波山に立てこもった16人に加え、内藤、鯉沼ら若干名にとどまった。
7名に死刑判決が下され(うち1人は刑執行前に獄死)、3名が無期懲役となった。但し服役者も獄死者を除き、特赦によって1894年までには出獄している。
この事件を期に、政府は、爆発物の使用に対して刑法(いわゆる旧刑法)の規定よりも厳格に取り締まるため、爆発物取締罰則を制定した。
また大阪事件もこうした一連の事件の延長線上に位置づけられている。
この間、自由党は解党し、同年末には改進党も大隈らが脱党し事実上分解した。加波山事件のあとに起きた秩父事件では軍隊が出動している。
●名古屋事件
1884年12月、加波山事件後解党していた旧自由党の党員が起こした政府転覆未遂事件。軍資金を調達するため略奪行為などを行うが、武装蜂起は失敗し、処罰される。
●飯田事件
1884年(明治17年)に起こった激化事件の一つ。明治政府への挙兵が計画されていた。
事件が起こったのは、1874年の民撰議院設立建白書以来、自由民権運動に揺れる最中の1884年である。計画の発案者は、愛知県で活動を行う村松愛蔵・八木重治と、長野県飯田市の桜井平吉である。
この計画内容は、名古屋にある明治政府大日本帝国陸軍の鎮台を地元飯田市・愛知県の民衆で占拠するという物であった。
この事件は、秩父事件を参考に明治政府への反乱を企てたが、同年11月9日に鎮圧以後、明治政府は政府転覆を理由に村松・八木・桜井などを逮捕し、刑務所に連行した。
●大阪事件
1885年(明治18年)に起こった自由民権運動の激化運動の一つ。朝鮮に政変を起こし、日本国内の改革に結びつけようという発想に基づくものであった。
大井憲太郎を中心に、景山英子や旧自由党の一部が参加。朝鮮半島に渡って改革派の独立党(金玉均ら)を支援し、立憲体制を築こうという計画が立てられた。
国内における自由民権運動が政府の弾圧のため閉塞したため、海外に進出することで日本の国威を発揚し、また国内改革をも図ろうと考えたものである。
爆弾を製造したり、資金を集めるため強盗も行われたが、実行前に計画は漏れ、139人が逮捕された。大井らは1889年、憲法発布の恩赦によって出獄した。
北村透谷は自由民権運動に参加していたが、大阪事件の際、強盗に誘われたため、悩んだ末、運動を離脱した。
秩父事件や自由民権運動、さらに激化事件に関連する書物を読んでいると、には自由党の大井憲太郎の名がよく出てくる。映画「草の乱」にも同じく大井が出てくる。 以下、大井憲太郎について見てみよう。
◆大井憲太郎
天保14年8月10日(1843年9月3日) - 大正11年(1922年)10月15日)