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夕暮れの洗足池のサクラ


勝海舟夫妻墓所と

西郷隆盛留魂碑


青山貞一・池田こみち

掲載日:2015年4月7日
独立系メディア
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水生植物園  サクラ広場  池月橋と千束八幡神社  勝海舟夫妻墓所と西郷隆盛留魂碑


出典:東京都大田区

 ところで、かつては、洗足池のほとりに勝海舟晩年の邸宅「千束軒」がありましたが戦災で焼失しました。



◆勝海舟夫妻の墓

 現在は勝夫妻の墓が残り、大田区の文化財に指定されています。幕末、勝は江戸総攻撃中止と江戸城無血開城を西郷隆盛に直談判するため、官軍の薩摩勢が本陣をおいた池上本門寺へ向かう途中、洗足池のほとりで休息しました。

 明治維新後、池の風光明媚を愛した勝が移住し、西郷もここを訪ねて勝と歓談したと言います。



勝海舟夫妻の墓所
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-6

勝 海舟(かつ かいしゅう) / 勝 安芳(かつ やすよし)

 勝 海舟(文政6年1月30日(1823年3月12日−明治32年(1899年)1月19日)は、江戸時代末期から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家です。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれています。

 幼名および通称は麟太郎。諱は義邦、明治維新後改名して安芳。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音の「安芳」に代えたものです。

 勝本人は「アホゥ」とも読めると言っています。海舟は号で、佐久間象山直筆の書、「海舟書屋」からとったものです。海舟という号は元は誰のものであったかは分からないとされています。父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟に当たります。家紋は丸に剣花菱。

 10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となります。16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開きます。

 安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設します。

 戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は、参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられました。

 李鴻章を始めとする清国の政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞しました。

出典:Wikipedia



勝海舟夫妻の墓所
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-6



勝先生墓前
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-6


勝先生墓前
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-4-6



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-6


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-6


◆徳富蘇峰の詩碑

 1937年(昭和12年)に勝海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城の偉業をたたえた徳富蘇峰の詩碑が青木藤作ら九人の人々によって建立されたのがこの石碑です。

 総高145センチ、幅132センチ。



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-6

◆勝海舟と徳富蘇峰との関係

 徳富蘇峰は明治20年代に赤坂氷川の勝海舟の邸内の借家に住み勝の教えを受け、勝を生涯の師の一人と仰いでいます。

 蘇峰は「勝先生と相見たのは先生の六十歳以後であり、立てば小兵で別段偉丈夫らしく見えぬが、ただ五尺の短身すべてエネルギーというべきもので、手を触れれば花火を飛ばすごとき心地がしたと述べています。

 先生が正面から人を叱りつけたことは見たこともなく、聞いたこともなかったが、その上げたり下げたり、人をひやかすことの辛辣手段に至っては、いかなる傑僧の毒話も及ぶところではないとも述べています。

 誰でも先生に面会すれば、一度は度肝を抜かれました。先生は何人に対しても、出会い頭に真拳毒手を無遠慮に下しました。それを辛抱して先生の訓えを聴かんとする者には必ず親切、丁寧に、手を取らんばかりに教え導いてくれました。」と書き残しています。

 上記のように勝の人となりを最大限に讃えている蘇峰だが、晩年の勝の放言には閉口することもあったようで、「惜しむらくはあまりにも多弁」とも書き残しています。


出典:Wikipedia


◆西郷隆盛留魂碑

 勝夫妻の墓の隣に「西郷隆盛留魂碑」が建っています。

 これは、西郷が西南役に倒れた後、当時の東京府南葛飾郡の浄光院境内に勝が自費で建てたもの。1913年(大正2年)に荒川放水路開鑿に伴い、当地に移建されています。



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-6


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-6


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-6

 
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-6
 

 朝は厚いもてなしを受けたかと思うと、夕べにはひどい仕打ちを受けることもある。

 人生の浮き沈みは昼と夜との交代にも似ている。

 ひまわりは太陽が輝かないときでも、常に太陽の方を向いているように、

 もし自分の運命が開けなくても、人を恨むことなく忠誠の心を抱き続けたい。

 京都の同志は皆、難に殉じているのに、私一人が南の島の囚人となって

 生き恥をさらしている。 もとより人の生死は天から授。



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-4-6

江戸開城(えどかいじょう)

 江戸時代末期(幕末)の慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた、江戸城の新政府への引渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさします。江戸城明け渡しとも江戸無血開城ともいいます。徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、同年から翌年にかけて行われた一連の戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件でもあります。

出典:Wikipedia


 これで本稿は終了です。