目黒不動尊・瀧泉寺短訪2 (東京都目黒区下目黒) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 28 May, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
その1 その2 その3 その4 ◆目黒不動瀧泉寺の境内 目黒不動瀧泉寺の境内です。 |
目黒不動尊 境内案内図
境内は台地と平地の境目に位置し、仁王門などの建つ平地と、大本堂の建つ高台の2段に造成されている。仁王門をくぐると正面に大本堂へ至る急な石段がある。石段下の左方には独鈷の滝(とっこのたき)、前不動堂、勢至堂などがあり、右方には書院、地蔵堂、観音堂、阿弥陀堂などがあります。 ◆目黒不動瀧泉寺の伽藍、碑(平地部、本堂に向かって左) ・仁王門 三間一戸の朱塗りの楼門で、昭和37年(1962年)再建の鉄筋コンクリート造である。この仁王門の前に平井権八・小紫の「比翼塚」があります。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 ・野村宗十郎銅像 仁王門を入って左手にある。野村宗十郎(1857 - 1925)は、築地活版製造所の社長で、日本に明朝体活字を普及させた人物です。 生没年 安政4年(1857)〜大正14年(1925) 印刷業者 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 略歴 長崎に生まれのちに、父の従兄野村全吉の養子となりましたが、全吉は函館戦争で幕府軍艦朝陽搭乗士官として戦死しました。本木昌造の新街私塾に入り英語を学びました。明治5年大阪に出て開成学校に入学、さらに東京英語学校及び大学予備門に学びました。明治22年東京築地活版製造所に入社。和文ポイント活字を創製し、これが新聞印刷で採用されるなど、印刷技術の革新に寄与しました。 以下は銅像のプレートに刻まれた碑文です。 君諱宗十郎安政四年五月四日出于長崎薩摩屋敷服部氏出嗣堅邦■少入新街新塾受活版術于昌造本木翁明治六年入東京大学予備門■病退十二年任大蔵省銀行局員尋轉主計局二十二年?官入築地活版製造所四十年奉社長君之在社也晨起夜寐看社務遊■技嘗創九波■活字問諳縺。発大阪博覧会九波因行乎巫ム于払也大正二年官賜藍綬褒章賞馬受又慨活字常軆紛乳如決決諮衆家出又省略點劃肌論■可讀不可讀其■力■?於活版術也経任国語調査会委員焉十二年■関東地震災起活版所帰烏有氏日夜勤勉■厭復興胡■■■假年俄然病歿大正十四年四月二十三日也特旨叙正七位 文学博士遠藤隆吉記 昭和五年六月上浣 ・山手七福神 恵比寿神 山の手七福神 恵比寿神はは仁王門から境内に入り左奥の池の畔にあります。山の手七福神 恵比寿神は七福神の筆頭格で、大黒天とともに商売繁盛の福神となっています。池畔に三福神(弁財天・大黒天・恵比寿天)も祀られており、ここが山の手・七福神の恵比寿天となっています。弁財天は七福神中の紅一点、美しい音楽の女神です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 山の手七福神 恵比寿神 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 元祖山手七福神は、東京都港区・目黒区の6か所の寺社に祀られています。七福神の巡礼札所です。江戸時代から続く七福神であり福禄寿と寿老人が1寺にまとまっています。 元祖山手七福神の一覧 ・蟠竜寺(弁財天) - 境内には享保年間の七福神碑がある。 ・瀧泉寺(恵比寿神) 目黒区下目黒 ・大円寺(大黒天) 目黒区下目黒 ・妙圓寺(福禄寿・寿老人) ・瑞聖寺(布袋尊) ・覚林寺(毘沙門天) 山の手七福神 恵比寿神の池 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 ・腰立不動 腰立不動 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 腰立不動 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 ・勢至堂 前不動堂のさらに左方にある宝形造の小堂。江戸時代中期の建築で、目黒区の有形文化財に指定されている。付近には甘藷先生(青木昆陽)碑、北一輝碑、本居長世碑などがあります。 勢至堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 勢至堂 出典:猫の足あと 勢至堂のあじさいです。 勢至堂のあじさい 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 勢至堂のあじさい 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 龍泉寺勢至堂(目黒区指定文化財昭和59年3月31日指定) 龍泉寺勢至堂は江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されています。建築各部にわたって後世の改変が甚だしいですが、全体的な形姿や細部絵様に優れた意匠の特質を保存しており、その姿に寛永中興期の龍泉寺の面影を残しています。 向かって右の前不動堂(都指定文化財)との関連をみると、勢至堂は前不動堂より建築意匠上の格は低いものの、細部に類似性が見られることから、勢至堂は前不動堂の建立からそれほど時間のたたない内に、前不動堂を意識して造営されたと推察できます。 現在の場所は創建当初からのものではなく、以前は前不動堂の前方にありましたが、昭和44年に行われた前不動堂の修理後に移されました。今では南斜面の緑の中に溶け込み、龍泉寺境内の優れた景観を形成しています。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 勢至堂は参道の左斜面、都指定有形文化財に指定されている前不動堂の更に左手にあります。建築の各部に後世の改変が見られますが、全体的な形姿や細部の絵様に優れた意匠を残しています。特に絵様の一部に寛永中興期の瀧泉寺の面影を伝えています。 正面は前不動堂とよく似ていて、前不動堂を意識してそれほど遠くない時代に立てられたと推測されます。史料がなく後世の変更部分を確定できませんが、境内で度重なる火災を免れた数少ない江戸期の建造物の一つで、簡素な細部様式と落ち着いた風格を今に伝えています。 もとは前不動堂の手前にありましたが、昭和44年に現在地付近に移築されました。 出典:目黒区教育委員会 ・前不動堂 独鈷の滝の左方にある宝形造朱塗りの小堂。江戸時代中期の建築で、東京都の有形文化財に指定されています。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-1 龍泉寺前不動堂附扁額一面(東京都指定文化財昭和41年3月31日指定) 「江戸名所図会」天?之部、目黒不動堂の条に、現位置附近に「前不動」として図示されている。扁額「前不動堂」には「佐玄竜書」の署名があるが、筆者佐々木玄龍は通称万次郎、池庵を号する。慶安3年(1650)江戸に生まれ、書風一家をなし、享保7年(1722)歿した。この扁額は堂建立当時のものと思われます。 龍泉寺本堂前石階の下、独鈷滝の左の崖下にあり、内には本尊木造不動明王立像などを安置し庶民信仰の便を計ったものと思われ、江戸時代中期の仏堂建築として比較的よく旧規を保っています。 目黒不動として親しまれている瀧泉寺境内、独鈷の滝のたき左側に前不動堂はあります。江戸時代、将軍や大名の参拝があると、庶民は本堂へは近づけませんでした。このため、庶民の便宜を図って建立したものといわれています。 江戸時代後期に刊行された『江戸名所図会』にも、現在地付近に描かれており、江戸中期の仏堂建築として、当時の姿をよく保っています。また、附つけたりとして指定されている「前不動堂」と書かれた扁額には、「佐玄龍書」の署名があり、建立当時のものと推測されます。 筆者の佐々木玄龍(1650年から1722年)は当時一世を風靡した書家です。 出典:東京都教育委員会 ・本居 長世の碑 本居 長世(もとおり ながよ、1885年(明治18年)4月4日 - 1945年(昭和20年)10月14日)は、日本の男性童謡作曲家。晩年は長豫と称しました。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 ・北向六地蔵 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 ◆目黒不動瀧泉寺の伽藍、碑(平地部、本堂に向かって右) ・地蔵堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 ・阿弥陀堂 阿弥陀堂 出典:猫の足あと 阿弥陀堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 ・観音堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 観音堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 観音堂内部 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 観音堂近くの白い花と蕾は「シャラ」又は「夏椿」です。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 子連れの駒犬です。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-8 つづく |