シルクロードの今を征く Now on the Silk Road 楊貴妃墓1 西安 (Xi'an、中国) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
総合メニュー 阿房宮1 阿房宮2 楊貴妃墓1 楊貴妃墓2 楊貴妃墓3 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています 次は楊貴妃とその墓の1です。 次は楊貴妃とその墓です。 ◆楊貴妃墓1 楊貴妃の墓は西安市の中心部から西約50kmのところにあります。 出典:グーグルマップ 出典:グーグルマップ 楊貴妃墓 出典:中国 百度百科 楊貴妃墓 出典:中国 百度百科 ・楊貴妃の概要 楊 貴妃(よう きひ、719年6月22日(開元7年6月1日) - 756年7月15日(至徳元載(元年)6月14日))は、中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号です。玄宗皇帝の寵姫であり、皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれます。 世界三大美人の一人で古代中国四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人とされています。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性でした。また、才知があり琵琶を初めとした音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られています。 「楊貴妃図」高久靄厓筆 静嘉堂文庫美術館蔵 Source:Wikimedia Commons Takaku Aigai(1796 - 1843) 高久靄厓 - SEIKADO BUNKO ART MUSEUM 静嘉堂文庫美術館, パブリック・ドメイン, リンクによる 楊貴妃 出典:中国 百度百科 ・生涯 以下、生涯についての記述は、『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』によるものとし、それ以外は出典を明らかにします。 ・出生 楊貴妃の像(華清池) Source:Wikimedia Commons By Photo by CEphoto, Uwe Aranas or alternatively © CEphoto, Uwe Aranas, CC BY-SA 3.0, Link 楊貴妃は蜀の出身。本籍は蒲州・永楽にあったといいます。蜀州司戸の楊玄の四女、兄に楊銛、姉に後の韓国夫人、国夫人、秦国夫人がいます。 6月1日に生まれたと伝えられます。四川省には、「落妃池」という楊貴妃が幼い頃に落ち込んだと伝えられる池があります。幼いころに両親を失い、叔父の楊玄の家で育てられました。 『定命録』によると、蜀に住んでいた時、張という姓の山野に住む隱士が彼女の人相を見て、「この娘は、将来、大富大貴になるであろう。皇后と同等の尊貴にあるだろう」と予言し、さらに、またいとこの楊国忠の人相を見て、「将来、何年も朝廷の大権を握るであろう」と告げたという説話が残っています。 『開元天宝遺事』によると、楊玄は若い頃に持っていた刀は、猛獣や盗賊が近づくと、警告するように、刀が音を発したと伝えられます。また、楊貴妃が父母と別れる時、寒い日であったので、涙が紅く凍ったという説話を伝えています。 生まれながら玉環を持っていたのでその名がつけられたというものや、また、広西省の庶民の出身であり、生まれた時に室内に芳香が充満しあまりに美しかったので楊玄に売られたという後世の俗説もあります。 ・寿王妃から女冠へ 735年(開元23年)、玄宗と武恵妃の間の息子(寿王李瑁、第十八子)の妃となります。李瑁は武恵妃と宰相・李林甫の後押しにより皇太子に推されますが、737年(開元25年)、武恵妃が死去し、翌年、宦官・高力士の薦めで李(後の粛宗)が皇太子に冊立されました。 740年(開元28年)、玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて一時的に女冠となりました(このときの道号を太真という)。これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われます。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけました。 楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲、歌舞に優れて利発であったため玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれました。『長恨歌伝』によれば、髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、物腰が柔らかであったと伝えられています。 楊貴妃墓2へつづく |