シルクロードの今を征く Now on the Silk Road 楊貴妃墓3 西安 (Xi'an、中国) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
総合メニュー 阿房宮1 阿房宮2 楊貴妃墓1 楊貴妃墓2 楊貴妃墓3 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています 次は楊貴妃とその墓の3です。 ◆楊貴妃墓3 ・安史の乱と最期 755年(天宝14載)、楊国忠と激しく対立した安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落した(安史の乱)。この時、玄宗は親征を決意し、太子・李亨(後の粛宗)に国を任せることを画策しましたが、楊国忠・韓国夫人・?国夫人の説得を受けた楊貴妃は土を口に含んで自らの死を請い、玄宗を思いとどまらせたと伝えられます。その後、唐側の副元帥である高仙芝は処刑され、哥舒翰が代わりに副元帥となり、潼関を守りました。 756年(至徳元載)には哥舒翰は安禄山側に大敗し捕らえられ、潼関も陥落しました。玄宗は首都・長安を抜け出し蜀地方へ出奔することに決め、楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らが同行することになりました。 しかし馬嵬(陝西省興平市)に至ると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は楊国忠と韓国夫人たちを殺害しました。さらに陳玄礼らは玄宗に対して、「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求しました。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばいましたが、高力士の進言によりやむなく楊貴妃に自殺を命ずることを決意しました。 『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死(首吊り)させられました。この時、南方から献上のライチが届いたので、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられます。 陳玄礼らによってその死は確認され、死体は郊外に埋められました。さらに安禄山は楊貴妃の死を聞き、数日も泣いたと伝えられています。その後、馬嵬に住む女性が楊貴妃の靴の片方を手に入れ、旅人に見物料を取って見せて大金持ちになったと伝えられます。 玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後、改葬を命じましたが、礼部侍郎・李揆からの反対意見により中止となりました。しかし玄宗は密かに宦官に命じて改葬させました。この時、残っていた錦の香袋を宦官は献上したといいます。また玄宗は画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたといいます。 長恨歌と長恨歌伝 楊貴妃死後50年経った806年(元和元年)頃に、玄宗と楊貴妃の物語を題材にして白居易が長編の漢詩である『長恨歌』を、陳鴻が小説の『長恨歌伝』を制作しています。 きっかけは、王質夫を加えた3人で仙遊寺に見学に赴き、その時に楊貴妃が話題にのぼり、感動した王質夫が白居易に後世に残すために詠み上げることを勧めたためであるといいます。また、白居易も陳鴻に物語として伝えるように勧めたと伝わっています。 後世への影響 ・文学・音楽・戯曲 楊貴妃(『能楽図絵』月岡耕漁画) Source:Wikimedia Commons 月岡耕漁 - ウォルターズ美術館: Home page Info about artwork, パブリック・ドメイン, リンクによる ・白居易の『長恨歌』を題材に作られた能「楊貴妃」がある(金春禅竹作)。 ・音楽作品としては、山田検校の「長恨歌」、光崎検校の「秋風の曲」がある。 ・井上靖は楊貴妃の生涯を元に『楊貴妃伝』を執筆した。 ・『楊貴妃伝』はさらに、2004年に宝塚歌劇団星組で舞台化された。 ・中国で後世、多くの小説、漢詩、雑劇、戯曲の題材として取り上げられた。さらに、日本においても、古典文学で話題にたびたび取りあげられ、古川柳などでも題材としていくつも使われている。 ・明末期の笑話集『笑府』刺俗部に、楊貴妃と張飛の登場する笑話がある。 ある男が、野ざらしになっていた骸骨を見つけ、気の毒に思って供養をしてやる。その晩、男の家の戸を叩く者があり、「誰だ」と聞くと「妃(フェイ)」と答える。さらに尋ねたところ「私は楊貴妃です。馬嵬で殺されてから葬られることもなく野ざらしになっていたのを、あなたが供養して下さいました。お礼に夜伽をさせて下さい」と答え、その晩、男と夜を共にした。これを聞いてうらやんだ隣の男、野原を探し回ってやはり野ざらしになった骸骨を見つけ、供養したところ、その晩やはり戸を叩く者があり、「誰だ」と聞くと「飛(フェイ)」と答える。「楊貴妃かい」と訊くと「俺は張飛だ」という答え。仰天して「張将軍には何ゆえのお来しで」と訪ねると、張飛曰く「拙者、漢中で殺されてから葬られることもなく野ざらしになっておったのを、貴殿に供養していただいた。お礼に夜伽をさせていただきたい」。 ・これがさらに日本で翻案されたのが、落語『野ざらし』。 ・楊貴妃墓の概説 楊貴妃の栄華と最期について語った上で、楊貴妃の死後のこととして、玄宗が道士に楊貴妃の魂を求めさせます。道士は魂となり、方々を探し、海上の山に太真という仙女がいるのをつきとめ会いに行きます。それこそが楊貴妃であり、道士に小箱とかんざしを二つに分けて片方を託し、伝言を伝えました。玄宗と楊貴妃が7月7日、長生殿で、「二人で比翼の鳥、連理の枝になりたい」と誓ったことと、この恨み(思い)は永遠に尽きないだろうということでした(比翼連理の故事)。 平等な一対としての男女の永遠の愛の誓いを謳い上げた『長恨歌』は、広く世間に流布しました。このため、楊貴妃の物語は後世にまで広く伝わり、多くの文学作品に影響を与えました。 楊貴妃の墓(興平市) 出典:ふれあい中国 http://www.chinatirp.jp 出典:ふれあい中国 http://www.chinatirp.jp 傾国の名花楊貴妃の墓は西安から70キロほど離れた興平県の馬嵬坡にある。彼女は718年に生まれ、756年に亡くなった。 745年に唐の玄宗皇帝の貴妃となり、玄宗は楊貴妃を得てから、毎日酒や歌舞や貴妃の愛に溺れて政務から遠ざかってしまった。このため、国内情勢が次第に悪化し、政治は窮境に陥った。 755年、勢力を貯えてきた安禄山が叛旗を翻し、所謂「安史の乱」が起こる。楊貴妃は玄宗皇帝に従って、戦火を避けた途中、馬嵬坡で近衛兵と指揮官の不満が募り、騒乱が起きた。兵士たちは「窮地に陥ったのは楊氏一族のせいである」と楊国忠を殺し、さらに、玄宗皇帝に楊貴妃を殺すことを要求した。時に楊貴妃は38才、子供ももたずに死んだ彼女の一生は、まさに「花の命は短くて苦しきことのみおおかりき」という詩の通りだった。 昔、楊貴妃の墓は土盛りだったが、墓の土は毎年春に白粉に代わって、香を漂わせたという。後にその白粉を顔に付けると美人になるという噂が広まり、大勢の若い女性がその白粉を欲しがり墓に集まった。このため、2,3年のうちに墓の盛り土がなくなってしまったという。 現在の墓は半球状のレンガで覆われており、墓前には「楊貴妃之墓」の碑がたてられている。楊貴妃の非業の死は人々の心を打ち、以来、歴代の多くの詩人が墓を参拝し、多くの詩を贈った。それらの詩は30基の石碑に刻まれ墓の回廊の壁に収められており、現在、墓地の辺りには門楼が建ち、亭、堂が復元されている。 出典:ふれあい中国 http://www.chinatirp.jp 大雁塔へつづく 総合メニュー |