エントランスへはここをクリック   中央アジア・シルクロード  【世界紀行
シルクロードの今を征く Now on the Silk Road

ヴェネツィア( Venezia、イタリア)

アントニオ・ヴィヴァルディ3


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日
独立系メディア E-wave Tokyo

<ヴェネツィア総合メニュー> <作曲家>

・ヴィヴァルディ1  ヴィヴァルディ2  ヴィヴァルディ3
ヴィヴァルディ4  ガブリエーリ  ガブリエーリ

 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆アントニオ・ヴィヴァルディ3

後世の影響と評価

 ヴィヴァルディは大変な蓄財が出来た程、同時代において高い評価を受けました。ルイ=クロード・ダカンも著作の中で「アルカンジェロ・コレッリに匹敵するのはヴィヴァルディの『四季』のみと書いています。

 ところが18世紀末から19世紀末にかけて、ヴィヴァルディは全く顧みられず忘れさられました。これはバッハも同様でしたが、19世紀末になってバッハが再評価されるとその生涯が調査され、その作品にヴィヴァルディの編曲を参考にした箇所が複数発見されました。

 20世紀に入り、アルフレード・カゼッラやジャン・フランチェスコ・マリピエロらの尽力で楽譜の整理、校訂が行われヴィヴァルディの作品は復興を果たしました。

 イ・ムジチ合奏団は『四季』を1955年に世界ではじめて録音し、レコードはこれまでに2500万枚以上という驚異的な売り上げを記録しています。これによりヴィヴァルディは一躍有名になり、クラシック・ファンを越えた人気を持つに至ったのです。

年表


ボローニャに伝わる作者不詳の有名な絵ですが、
これがヴィヴァルディなのかは分かっていません
Source:Wikimedia  Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる

 1678年 - (0歳) ヴェネツィアに生まれる。
 1688年 - (10歳) サン・マルコ大聖堂近くのサン・ジェミニアーノ教会付属学校に入学する。
 1693年 - (15歳) 剃髪して最下級の聖職者となる。
 1703年 - (25歳) 司祭となる ピエタでヴァイオリン教師として奉職し始める。
 1704年 - (26歳) ピエタで、ヴァイオリンの他にヴィオラ・アッリングレーゼを教え始める。
 1705年 - (27歳) 作品1(12曲のトリオソナタ集)がヴェネツィアで出版される。
 1711年 - (33歳) 作品3(調和の霊感)がアムステルダムで出版される。
 1713年 - (35歳) 最初のオペラ『離宮のオットー大帝』をヴィチェンツァで初演する。
 1716年 - (38歳) オラトリオ『勝利のユディータ』を初演。
 1718年 ~1720年 - (40歳-42歳)マントヴァでヘッセン=ダルムシュタット方伯の宮廷楽長として奉職する。
 1723年 ~1724年 - (45歳-46歳)ローマで3本のオペラを初演、ローマ教皇御前演奏。作品8(四季を含む)出版。
 1728年 - (50歳) トリエステで神聖ローマ皇帝カール6世に謁見する。手書きの協奏曲集『チェートラ』を献呈。
 1730年 - (52歳) オペラがプラハで上演される。
 1735年 - (57歳) 再び「協奏曲長」に任ぜられる。
 1740年 - (62歳) 3月21日にヴェネツィアを訪問中だったザクセン選帝侯の為に協奏曲3曲とシンフォニア1曲の作曲をピエタから依頼される。この年の秋にヴェネツィアを発つ。
 1741年 - (63歳) 7月28日、ウィーンのケルントナートーア劇場専用の作曲家宿舎で内臓疾患により客死。

作品

著名な作品

・和声と創意の試み(Il cimento dell'armonia e dell'invenzione)作品8。1725年に出版された12曲のヴァイオリン協奏曲集

・四季(Le quattro stagioni(The Four Seasons)):この作品8のうちの第1番から第4番までを指す。

・調和の霊感(L'estro armonico)作品3
1本から4本のヴァイオリン(部分的にチェロも加わる)のための12曲からなる協奏曲集。1711年にアムステルダムのロジェより出版されました。

 いわゆるリトルネロ形式による急速楽章を持つ、急―緩―急の3楽章形式による独奏協奏曲の様式を確立した画期的作品といえる。しかし、部分的にはコレッリ以来の合奏協奏曲のスタイルも含んでいます(例えば7番、11番など)。後にJ.S.バッハが、この曲集のうち第3番、第9番、第12番をチェンバロ独奏用(BWV978、972、976)に、第8番、第11番をオルガン独奏用(BWV593、596)に、第10番を4台のチェンバロと弦楽合奏のため(BWV1065)に編曲しました。

・ヴィヴァルディが出版した作品

 ヴィヴァルディの協奏曲及びソナタのうちのいくつかは存命中に出版されています。

 ・作品1 12曲のトリオ・ソナタ集
 ・作品2 12曲のヴァイオリン・ソナタ集
 ・作品3 12曲の合奏協奏曲集『調和の霊感』
 ・作品4 12曲のヴァイオリン協奏曲集『ストラヴァガンツァ』
 ・作品5 6曲のソナタ集
 ・作品6 6曲のヴァイオリン協奏曲集 
 ・作品7 12曲の協奏曲集
 ・作品8 12曲の協奏曲集『和声と創意への試み』(『四季』を含む)
 ・作品9 12曲のヴァイオリン協奏曲集『チェートラ 』
 ・作品10 6曲のフルート協奏曲集
 ・作品11 6曲のヴァイオリン協奏曲集
 ・作品12 5曲のヴァイオリン協奏曲と1曲の弦楽のための協奏曲

 以上の作品の初版は、1,2を除いてアムステルダムのル・セーヌ社から出版されており、ヴィヴァルディがヴェネツィアのみに留まらず、ヨーロッパでも名声を得ていたことがわかります。作品3、4、8、9はすべて献辞つきで王侯貴族に献呈されているが、献辞のない作品5、6、7、10、11、12のうちのいくつかは、出版社がヴィヴァルディの了解を得ることなく出版した可能性が高いと言えます。

 1730年頃を境に、いろいろ制約の多い出版譜ではなく、筆写譜での流布を好むようになりまし。そのため、円熟期の作品には作品番号が付されていないものが圧倒的に多いようです。

  以前は作品13が存在するとされていたが、後年の研究でシェドヴィルがヴィヴァルディの名をかたって出版したものであることが判明した。また、作品14(6曲のチェロ・ソナタ集)は 、パリの出版社が勝手に付けた作品番号です。


アントニオ・ヴィヴァルディ4つづく