シルクロードの今を征く Now on the Silk Road パドヴァ(Padova)2( Padova、イタリア) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2019年4月20日、改訂公表予定2020年10月1日 2024年7月21日 独立系メディア E-wave Tokyo |
<ヴェネツィア総合メニュー> <パドヴァ> パドヴァ パドヴァ2 パドヴァ3 パドヴァ4 ギャラリー1 ギャラリー2 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 ◆パドヴァ(Padova)2 歴史 アルティナーテ門 Source:Wikimedia Commns CC 表示-継承 3.0, リンクによる ウンベルト1世通り Source:Wikimedia Commns パブリック・ドメイン, リンクによる 古代 パドヴァは北イタリア最古の都市であると主張しています。伝承によれば、少なくともウェルギリウスの『アエネイス』に書かれた時代からあったといい、自身が繁栄した中世コムーネ時代に証拠が再発見されました。それによると、トロヤ王子アンテノール(Ἀντήνωρ)によって紀元前1183年にパドヴァはつくられました。 アンテノポスは、パフラゴニア (アナトリア・黒海沿岸の地方)からイタリアにヴェネティ人を率いて建設を支援しました。市は1274年に巨大な石のサルコファガスを発掘し、これらがアンテノポスの遺骸とされると表明しました。 共和政ローマからパタウィウム(Patavium)として知られていたパドヴァには、アドリア・ヴェネティ人が住んでいました。彼らはウマの飼育とヒツジからとる羊毛で知られていました。 アドリア・ヴェネティ人の男たちはカンナエでローマ人と戦いました。パタウィウムは紀元前45年からローマのムニキピウムとなりました。パタウィウムは、すぐに無数の戦闘要員を集められるほど強力でした。近郊にあるアーバノは、歴史家リウィウスの生誕地とされています。パドヴァではガイウス・ウァレリウス・フラックス、アスコニウス・ペディアヌス、プブリウス・パエトゥスが生まれています。 パドヴァ地域をキリスト教化したのは聖プロスドキムスであったとされています。彼はパドヴァ初代司教として深く敬われました。 古代後期 古代後期以後のパドヴァ史は、イタリア北東部の多くの都市がそうであったのと同じ過程を辿りました。 パドヴァは452年、アッティラが指揮するフン族の侵攻を受けました。次にはゴート族のオドアケル、テオドリックの支配を受けました。しかしゴート戦争の間の540年に、東ローマ帝国へ従属しました。パドヴァはその後再度トーティラによって略奪・破壊されますが、568年に東ローマ将軍ナルセスによって帝国領へ復帰しました。その後、ロンゴバルド族の支配を受けました。 601年、パドヴァはロンゴバルド王アギルルフに対し反乱を起こしました。12年に及んだ長く血塗られた包囲戦後、アギルルフ王によって略奪され市は焼かれました。古代のパドヴァは消滅してしまったのです。 古代の円形演技場の遺跡と、一部の橋の基礎部分が、ローマ時代から現代まで残っています。パドヴァ市民は丘陵地帯へ逃れ、廃墟の中で細々と暮らすために戻ってきました。年代記によれば、支配階級はラグーナのために市を見捨てました。アギルルフの蛮行からの復興はたやすくなく、ロンゴバルドの次にフランク王国が北イタリアの覇者となっても、パドヴァはかつての栄光の失せた小さな町に過ぎなかったのです。 フランク支配と教会主権 828年のエクス=ラ=シャペル議会で、パドヴァの含まれるフリウリ地方にある公領と辺境侯領は4つに分割され、その一つがパドヴァ公領となりました。 北イタリア都市がカトリック教会主権の下にあった時代、パドヴァは非常に重要とも活発だともみられていませんでした。叙任権闘争を通じた政策の一般的な傾向は、皇帝優位であり教会派ではありませんでした。司教は大半をドイツ人が占めていました。中世最盛期の大事件は、899年に起きたマジャール族のパドヴァ略奪です。パドヴァがこの痛手から立ち直るまで何年もかかりました。 コムーネの非常事態 ・パードヴァのドゥオーモ(Duomo di Padova) Source:Wikimedia Commns CC 表示-継承 4.0, リンクによる 表面下で、いくつもの重要な出来事が起きたことは、パドヴァの後世の発展のための形成であることを証明しています。 11世紀初頭、パドヴァ市民は通常議会または立法議会、クレデンツァ(credenza)または執行委員から構成される組織をつくりました。 12世紀、市民はバッキリョーネ川とブレンタ川の水運権をめぐってヴェネツィア=ヴィチェンツァと戦争状態となりました。これは、同盟者を求めずとも自力で戦えるほどの力をパドヴァが蓄えていたことを意味しました。 有力貴族であるカンポサンピエロ家、エステ家、ダ・ロマーノ家が台頭し始め、パドヴァ地域を分割しました。自らの自由を守るためにパドヴァ市民は自分たちでポデスタ(行政長官)を選ぶことを余儀なくされました。彼らの最初の選択で、エステ家の一員が選ばれました。1174年、大火がパドヴァを破壊し尽くしました。これで事実上の市の再建が始まったのです。 ロンバルディア同盟の同時代の快進撃が、パドヴァを強化するのを助けました。その結果、1236年にパドヴァと周辺都市で、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は自らの専制的な代理人としてエッツェリーノ・ダ・ロマーノ(彼は住民に対し恐ろしい暴行を日常的に行っていた)を擁立するのに少々困難が伴うことを知りました。教皇アレクサンデル4世のため、エッツェリーノは市民の血を流すことなく1256年6月に免職しました。 パドヴァは平穏な繁栄の時代を謳歌しました。聖人を祀る大聖堂建設が始まった。パドヴァはヴィチェンツァをも支配下におきました。パドヴァ大学は1222年に創立され、13世紀に繁栄しました。 13世紀のパドヴァの発展が、ヴェローナ領主カングランデ1世・デッラ・スカラとの対立を、最終的にもたらしました。1311年、パドヴァはヴェローナを譲渡しなければならなかったのです。 1318年、ヤコポ・ダ・カッラーラがパドヴァ領主に選ばれました。1318年から1405年まで、輝かしいカッラーラ家出身の9人がパドヴァ領主となりました(1328年から1337年までスカリジェリ家の事実上の支配、そして1388年から1390年までジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが支配した時期を除く)。 カッラーラ家時代は、定期的な戦争のために安息のない長い時代でした。1387年、パドヴァに雇われたジョン・ホークウッドが、ジョヴァンニ・オルデラッフィ率いるヴェローナと戦ったカスタニャーロの戦いで勝利しました。 カッラーラ家時代は、ヴィスコンティ家の強大化と、ヴェネツィア共和国の重要性が増したことでついに終焉を迎えました。 ヴェネツィア支配 1405年にパドヴァはヴェネツィアの元へ下りました。それは1797年にヴェネツィアが没落するまで続きました。 カンブレー同盟戦争時代、1509年に市の支配者が事実上変わった時期があります。1508年10月10日、教皇大使、フランス王国、神聖ローマ帝国、スペイン王国が反ヴェネツィア共和国のカンブレー同盟を締結しました。その同意内容は、イタリアにおけるヴェネツィア領の完全な解体、条約調印国の間での分割でした。 皇帝マクシミリアン1世はヴェローナとその他領土に加えてパドヴァを受け取ることになりました。1509年、帝国軍によってわずか数週間でパドヴァは陥落しました。ヴェネツィア軍は素早く奪還し、帝国軍の包囲戦にパドヴァを守り抜くことに成功しました。 パドヴァは、文民であるポデスタと、軍人である隊長を務める2人のヴェネツィア貴族によって統治されました。どちらも16ヶ月の任期でした。これらの統治者のもと、大小議会が自治政府の実務を果たし続け、パドヴァ法を施行しました。国庫は2人の出納官が管理しました。5年ごとに、パドヴァ市民は地元貴族の一人をヴェネツィアへ公使(nunzio)として派遣しました。公使となった貴族はヴェネツィアに住み、生まれ故郷の問題を見つめていました。 ヴェネツィアは、パドヴァを新しい城壁で防衛強化しました。そこには長く世に残る門の一連がありました。 トロンコ・マエストロ・リヴィエーラ。水路沿いの歩道 Source:Wikimedia Commns パブリック・ドメイン, リンクによる 1817年頃描かれたシニョーリ広場 Source:Wikimedia Commns パブリック・ドメイン, リンクによる パドヴァ3につづく |