シルクロードの今を征く Now on the Silk Road パドヴァ(Padova)3( Padova、イタリア) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2019年4月20日、改訂公表予定2020年10月1日 2024年7月21日 独立系メディア E-wave Tokyo |
<ヴェネツィア総合メニュー> <パドヴァ> パドヴァ パドヴァ2 パドヴァ3 パドヴァ4 ギャラリー1 ギャラリー2 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 ◆パドヴァ(Padova)3 オーストリア支配 1797年、ヴェネツィア共和国がカンポ・フォルミオ条約で地図上から消されると、パドヴァはオーストリア帝国へ割譲されました。1814年にナポレオンが退位すると、市はロンバルド=ヴェネト王国の一部となりました。 オーストリアは、北イタリアの進歩的集団に人気がありませんでした。パドヴァでは1848年革命が学生暴動となり、2月8日には大学とペドロッキ・カッフェ(世界最大のカフェ)が、学生とパドヴァ一般市民が敵味方に別れた戦闘の場となりました。 オーストリア支配下で、パドヴァは産業発展を始めました。最初の鉄道軌道、パドヴァ=ヴェネツィア線が1845年に建設されました。 1866年、コニッグラッツの戦いで、イタリアは旧ヴェネツィア共和国領とヴェネトの残りからオーストリアを押し出す機会を得ました。これらの領土はイタリア王国へ併合されました。 イタリア支配 ・ラジオーネ宮殿(Palazzo della Ragione) - 13世紀初頭に完成した ルネサンス様式のタウンホール。 Source: Wikimedia Commons CC 表示-継承 4.0, リンクによる 1866年のイタリア併合で、パドヴァは北イタリアの貧しい地域の中心となり、1960年代まではヴェネト地方でもありました。これにもかかわらず、市は経済的にも社会的にも続く10年間繁栄し、工業が発展し、重要な農業市場、重要な文化技術の中心(パドヴァ大学)となりました。市には主要指揮権と多くの連隊を抱えました。 20世紀 1915年5月24日、イタリアは第一次世界大戦へ参戦、パドヴァはイタリア軍の主要基地に選ばれました。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と総司令官カドルナは戦時中パドヴァで生活しました。1917年秋のカポレットの戦いでイタリアが退けられると、前線がピアーヴェ川に据えられました。これはパドヴァから50km,60kmであり、市はオーストリア砲兵隊からの射程距離内に入りました。しかしイタリア軍司令部は退却しませんでした。市は数度にわたって砲撃されました(およそ100人の市民が亡くなっています)。忘れられない功績は、パドヴァ近郊のサン・ペラジョ城飛行場からウィーンへガブリエーレ・ダンヌンツィオが飛行したことです。 1年後、パドヴァへの危機は取り除かれました。1918年10月下旬、イタリア軍はヴィットリオ・ヴェネトの戦いで決定的な勝利を挙げました(まさにカポレットの戦いでの敗退から1年のことでした)。オーストリア軍は自滅しました。1918年11月3日、パドヴァのヴィッラ・ジュスティで、オーストリア=ハンガリー帝国がイタリアへ降伏する、ヴィラ・ジュスティ休戦協定が結ばれました。 戦争の間、産業は強力に推進され、これが戦後さらなる発展の基盤をパドヴァに与えました。大戦後の数年間、仮に労働者と上流階級の衝突が当時猛烈であったとしてもパドヴァは歴史的な市街の外で発展し、市は拡張し人口が増加しました。 イタリア内外の多くの地でそうであったように、パドヴァは戦後すぐに大きな社会的混乱を経験しました。市はストライキと衝突で押し流され、工場と野外は占有されてしまっていました。退役軍人たちは、再び市民生活へ戻ることに格闘していました。市民の多くが新たな政治の道、ファシズムを支持しました。イタリアの他のコムーネと同様、パドヴァでのファシスト党はすぐに繁栄の保護者、反革命の権威として迎えられました。市は、最大級のファシスト全体集会が行われた地の1つで、出席したムッソリーニの演説を30万人の観衆が聞いたと伝えられています 典型的なファシスト建築である新しい建物が、市内でそびえ立っていました。それらの建物は、スパラート広場周辺、鉄道駅、市役所新館、大学の建物であるボー宮殿の一部に、現在も見られます。 1943年9月8日、第二次世界大戦でのイタリア降伏に伴い、パドヴァはナチス・ドイツの傀儡イタリア社会共和国の一部となりました。市には新国家の公共教育省、軍、軍用空港が置かれました。レジスタンス運動は、新ファシスト政権下、そしてナチス支配下でも非常に活発でした。レジスタンスのリーダーの一人は、パドヴァ大学の副総長コンチェット・マルケージでした。 パドヴァは連合国側の戦闘機によって数度の爆撃を受けました。最も被弾したのは、鉄道駅とアルチェッラ地区北部でした。これらの爆撃の最中、マンテーニャのフレスコ画を所蔵していた、美しいエレミターニ教会付属の礼拝堂が破壊されました(教会がドイツ軍本部に隣接していたため巻き添えとなったのです)。一部の美術史家は戦時中イタリア最大の文化的損失とみなしています。 1945年4月28日、パドヴァはついにパルチザンとイギリス軍によって解放されました。小さなイギリス連邦・戦争墓地が市西部にあり、これらの軍の犠牲者を埋葬していまする。 大戦後、北イタリアの最貧地方からヴェネト地方が脱したのを反映して、パドヴァは急速に発展しました。現在パドヴァを含むヴェネトはイタリア国内有数の裕福かつ活発な地方となっています。 行政 行政区画 パドヴァには以下の分離集落(フラツィオーネ)があります。 Altichiero, Arcella, Bassanello, Brusegana, Camin, Chiesanuova, Forcellini, Guizza, Madonna Pellegrina, Mandria, Montà, Mortise, Paltana, Ponte di Brenta, Ponterotto, Pontevigodarzere, Sacra Famiglia, Salboro, Santa Croce-Città Giardino, Stanga, Terranegra, Torre, Voltabarozzo, Voltabrusegana 名所旧跡 ・パドヴァのドゥオーモ(Duomo di Padova) Source:Wikimedia Commns CC 表示-継承 4.0, リンクによる ・ラジオーネ宮殿(Palazzo della Ragione) - 13世紀初頭に完成したルネサンス様式のタウンホール。 Source: Wikimedia Commons CC 表示-継承 4.0, リンクによる ・プラート・デッラ・ヴァッレ(Prato della Valle) - 約9万平方kmの面積がある楕円形の広場。 中央部には、メンミーナ島という小島が周囲を小さな運河に囲まれている(運河沿いには、建設当時の市民を模した78体の彫刻群が両側に並ぶ)。 Source: Wikimedia Commons CC BY-SA 4.0, Link パドヴァの聖アントニオ教会の聖堂 - 聖パドヴァのアントニオの聖遺物を祀る。 市で最も重要な教会で、単にイル・サント(Il Santo)と呼ばれている。 6月13日には聖アントニオ祭が開かれる。 Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 4.0, リンクによる ・オルト・ボタニコ - パドヴァ大学付属植物園。UNESCO世界遺産。 Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる ・サン・ガエターノ教会(Chiesa di San Gaetano) - 16世紀。ヴィンチェンツォ・スカモッツィの設計。 Source:Wikimedia Commons CC BY-SA 4.0, Collegamento サンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ市) ・サンタ・ジュスティーナ教会 - 修道院付属の教会。聖ジュスティーナへ献堂。最初の建物は6世紀に建てられ、現在の建物は15世紀のものである。一時ナポレオンに接収されていた。 Abbey of Santa Giustina in Padua Italy. Source:Wikimedia Commons CC BY-SA 4.0, Link ・中世現代美術館(Museo d'Arte Medioevale e Moderna) - ジョットの十字架像、ジョヴァンニ・ベリーニの「貴族の肖像」などを所蔵する。 Source:Wikimedia Commons Pubblico dominio, Collegamento ・考古学博物館(Museo Archeologico) Source:Giorgio De Novellisgle, Google Map Street View ・ボッタチン博物館(Museo di Arti Applicate e Museo Bottacin) ・エレミターニ市立美術館(Musei Civici degli Eremitani) - 13世紀に建てられた聖アウグスチノ会派のエレミターニ修道院に入っている。パドヴァの名門貴族の所有であったスクロヴェーニ礼拝堂を含む。礼拝堂ではその壁面を覆うジョットの最高傑作のフレスコ画「最後の審判」「聖母マリアの生涯」「キリストの生涯」「ユダの接吻」は必見。 Source:Wikimedia Commons CC BY-SA 4.0, Link ・パドヴァ円形闘技場 - エレミターニ市立美術館と共にアレナ公園内にある、紀元前後に建てられた古代ローマの円形闘技場 Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる パドヴァ4につづく |