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シルクロードの今を征く Now on the Silk Road

ヴェネツィア( Venezia、イタリア)


フェニーチェ劇場2
(Teatro La Fenice

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日
独立系メディア E-wave Tokyo

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 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

 最後はシルクロードの終点のひとつ、イタリアのヴェネツィア(ベニス)です。

◆フェニーチェ劇場2 Venezia、イタリア)

劇場創建


 上述のように、フェニーチェ劇場は火災で焼失したサン・ベネデット劇場の後継(の一つ)として創建されました。

 劇場設計案は1789年11月1日に公示された建築設計競技(コンペティション)によって公募されました。劇場へのアクセスがゴンドラ(富裕層)あるいは徒歩に限られるヴェネツィアの特殊事情を反映して、コンペには「主入口はメヌオ運河に面すること、そして大型ゴンドラの利用を勘案しその幅は最低6メートル確保すること」等の微細にわたる条件が付されていました。また、コーヒー等の嗜好品販売にあてるスペースの確保、火災予防・延焼防止設備への考慮なども条件に記載されています。

 コンペにはイタリア各地(もっとも当時のイタリアは統一国家ではない)から多くの建築家が参加、記録によれば28の設計案が競合、自案を宣伝し他案を中傷するパンフレットが飛び交うなど白熱したものだったといいます。

 最終的に審査委員会は当初一般に下馬評の高かったピエトロ・ビアンキの案を斥けジャンアントニオ・セルヴァの案を勝者としましたが、これはヴェネツィア大衆の轟々たる非難の対象となりました。

 セルヴァを揶揄する雑言やソネット(詩)なども記録に残っています。例えばセルヴァは劇場のファサードに"SOCIETAS"(共同で、といった意味)という銘を刻みましたが、これを反対派は"Sine Ordine Cum Irregularitate Erexit Theatrum Antonius Selva"(方法も秩序もないまま、アントニウス・セルヴァがこの劇場を建てた)と読み替えて皮肉りました。往時における歌劇場建設がいかに関心の高いイヴェントであったかを窺い知れて興味深いものがあります。

 客席規模約1500をもつこの新劇場は1792年4月に完成、5月16日にパイジエッロのオペラI giuochi d'Agrigentoにより開場しました。

 画家フランチェスコ・フォンタネージのデザインによる美しい内装と、「ロイヤル・ボックス」的なものを廃し、174全てのボックス席がほぼ同形同大に作られているという構造が特徴的でした。この「平等主義」的アプローチに、当時のフランス革命の影響を見る向きもあります。

 もっともヴェネツィアがナポレオン支配下に陥ちた1808年には、セルヴァの手によりロイヤル・ボックスが仮増設されました(この時同様にナポレオンを王に戴いていたミラノでもスカラ座がナポレオンの嗜好に合わせる形で改修されています)。

 フェニーチェ劇場は当初からヴェネツィア、あるいは広くヨーロッパにとっての中心的歌劇場としての地位を確立しました。ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティの新作初演を含む数多くのオペラが上演されました。

1836年の火災と再建

 しかし同劇場は1836年12月13日深夜、火災で焼失します。導入されたばかりのオーストリアン・ストーブ(暖房機器)から出火したとされるこの火災は、鎮火までに丸3日を要したといいます。

 劇場はわずか1年で再建されました。外観的にはセルヴァの原設計はスタッコ仕上に至るまでかなり忠実に再現されましたが、機能上は1792年原建築でオペラ・演劇双方の利用に配慮していたのを、再建ではオペラ上演に特化するなどの変更がみられます。また、メヌオ運河に面した主入口には、ゴルドーニとセルヴァを顕彰するレリーフが掲げられました。1837年12月26日、再建初演はジュゼッペ・リッロの『ラヴェンナのロスムンダ』Rosmunda in Ravenna。

 その後、1854年、および20世紀に入っては1936年にそれぞれ大改修がなされました。再建後もイタリア半島の主要歌劇場としての地位は失わず、ヴェルディ中期の傑作『リゴレット』、『椿姫』などの初演がこのフェニーチェ劇場でなされています。


再々建なった劇場の内部。2005年撮影
Source: Wikimedia Commons
CC 表示-継承 2.5, リンク


 以下はフェニーチェ歌劇場座席表 です。


フェニーチェ歌劇場座席表
出典:フォオト蔵

1996年の火災と再建

 1996年1月29日、修復工事中のフェニーチェ劇場は再び火災で全焼します。原因は補修作業の遅れにより違約金の支払を求められていた電気工事業者による放火という前代未聞の事態だったのです。

 2001年3月には、容疑者である2人の工事業者がそれぞれ禁錮7年と6年の実刑判決を受けました。予算や再建方法を巡る様々の困難のため、再建工事は2001年になりようやく開始されました。

 特に内装に関しては焼失以前の資料が決定的に不足していたため、焼跡に残されたシャンデリア等の再利用、遺物に基づいての復元、はてはこの劇場が用いられたルキノ・ヴィスコンティ監督の映画作品『夏の嵐』(1954年)の映像を参考にするなどの苦労があったといいます。

 こうしてほぼ焼失前の偉容を取り戻したフェニーチェ劇場ですが、「内装が以前と比べて明るすぎる」「音響面では劣化した」等、一部には否定的な評論もみられます。

 劇場は2003年12月14日、リッカルド・ムーティ指揮によるコンサート形式の演奏会をもって再開場しました。最初の曲目はベートーヴェンの序曲「献堂式」Op.124です。

 音響面の手直しや舞台設備据付の関係でオペラ上演の再開は更にその1年後、2004年11月、演目はかつて当劇場で初演されたヴェルディ『椿姫』です。

 再建に要した総コストは9000万ユーロといいます。2001年と2005年の2回、同劇場が来日引越公演を行ったのもその費用捻出の一助となったものとみられます。

フェニーチェ劇場で初演された主なオペラ

 ・ジョアッキーノ・アントニオ・ロッシーニ
  『タンクレディ』 Tancredi(1813年)
  『シジスモンド』 Sigismondo(1814年)
  『セミラーミデ』 Semiramide(1823年)

 ・ジャコモ・マイアベーア
 『エジプトの十字軍』 Il crociato in Egitto(1824年)

 ヴィンチェンツォ・ベッリーニ
 ・『カプレーティ家とモンテッキ家』I Capuleti e i Montecchi(1830年)
 ・『テンダのベアトリーチェ』 Beatrice di Tenda(1833年)

 ガエターノ・ドニゼッティ
 ・『ベリザーリオ』 Belisario(1836年)
 ・『ルデンツ家のマリア』Maria di Rudenz(1838年)

 ジュゼッペ・ヴェルディ
 ・『エルナーニ』 Ernani(1844年)
 ・『アッティラ』 Attila(1846年)
 ・『リゴレット』 Rigoletto(1851年)
 ・『椿姫』 La Traviata(1853年)
 ・『シモン・ボッカネグラ』(1857年)

 1930年からはフェニーチェ劇場は国際現代音楽祭(Festival Internazionale di Musica Contemporanea、ヴェネツィア・ビエンナーレの一部として)の会場ともなっており、以下のような新作オペラの初演がなされた。

 イーゴリ・ストラヴィンスキー
   『放蕩者の成行』Rake's Progress(1951年)
 ベンジャミン・ブリテン
  『ねじの回転』The Turn of the Screw(1954年)


出典:グーグルマップ


前売りが満席でも

 ラ フェニーチェ劇場の口コミ。口コミを投稿:2010年11月25日
 ラ フェニーチェでオペラを鑑賞するのが念願でしたがインターネネットでも現地でもチケットは売り切れ。あきらめ半分で劇場内の見学へ。料金を払うときに当日券について聞いたらその場で売ってくれました。

 ただし150ユーロの席でしたが。パリのオペラ座などは当日券発売時間もきっちり決まっていたのでこればかりは、イタリア人のアバウトさに感謝。劇場の印象は豪華だけどかわいらしい感じでファントムなんかより妖精がいそう。実際に聞くと音響がすばらしかったです。大きい劇場ではないので端や後ろの席でもステージはばっちり見えると思います。

 出典:トリップアドバイザー


ヴェネツィア・カーニバル1へつづく