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アンカラ

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月
独立系メディア E-wave Tokyo
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アンカラ  アンカラ文化遺産  2016年クーデター未遂  

 次はトルコのアンカラです。

◆アンカラ


アンカラ市旗
Ssolbergj - 投稿者自身による作品 based on http://www.ankara.bel.tr/, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=49335841による
Source:Wikimedia Commons


アンカラ市
File:Sogutozu Ankara Turkey.jpg: User:CharismaniacFile:Atakule.JPG: Scisa at nl.wikipediaFile:Anitkabir Mausoleum Ataturk.JPG: User:UspnFile:Genclik Park (6526102911).jpg: David Stanley from Nanaimo, CanadaFile:KocatepeMosque.jpg: User:NoumenonFile:Ankara Kizilay square.JPG: User:Ahmetan - File:Sogutozu Ankara Turkey.jpgFile:Atakule.JPGFile:Anitkabir Mausoleum Ataturk.JPGFile:Genclik Park (6526102911).jpgFile:KocatepeMosque.jpgFile:Ankara Kizilay square.JPG, CC 表示 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


アンカラ市の位置
出典:グーグルマップ

 アンカラ(Ankara [ˈaŋ.ka.ɾa] ( 音声ファイル))は、トルコ共和国の首都です。人口は約442万人(2013年)を抱え、イスタンブールに次ぐ同国第2の都市であり、アンカラ県の県都でもあります。アナトリア半島中央部に位置し、中東・西アジア有数の世界都市で、トルコの政治の中心地です。

概要

 都市の主要部分はウルス (Ulus) と呼ばれるオスマン帝国時代以前からの歴史的旧市街と、1920年代以降にトルコ共和国政府によってその南にイェニシェヒル (Yenişehir) という名で計画的に建設された新市街、およびその郊外地区からなり、政府の施設はイェニシェヒルに集中しています。


アンカラの残る古代ろうーま遺跡
Mutt - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 市街は政府の計画に沿って建設が進められましたが、郊外地区は第二次世界大戦後の経済発展の都市集中に伴ってアンカラに流入してきた人々が建てたゲジェコンドゥと呼ばれる不法占拠住宅によって無秩序かつ急速に拡大した部分も大きいと言えます。

 1980年代以降は地下鉄など交通網の整備が進められ、郊外に大規模な団地、ニュータウンが建設され、都市の膨張は進展しつづけています。

 アンキュラは紀元前189年、ローマ帝国に占領されてアンゴラ (Angora) の名で知られるようになります。

 ローマ人は、アンゴラをローマ都市として整備するため、大劇場、大浴場、アウグストゥスを祀る神殿、ユリアヌスの来訪を記念する円柱などを建てました。それらは、アンカラとなった現在も遺跡として残っています。東ローマ帝国のもとでキリスト教が広まり、現在も残る城塞が築かれました。またテマ(軍管区)・オプティマトンの首府となるなど、アナトリア中部における帝国の地方行政・軍事の拠点都市となっています。

 このため度々イスラーム勢力の侵攻を受け、806年にはアッバース朝のカリフ、ハールーン・アッ=ラシードが自ら軍を率いてアンゴラを包囲するということも起こっています。アンゴラは、1073年にムスリム(イスラム教徒)のセルジューク朝によって占領され、トルコ人によってアンカラと呼ばれるようになりました。

 1101年には1101年の十字軍としてやってきたトゥールーズ伯レーモン4世がアンカラを占領しています。セルジューク朝がレーモン4世の軍を撃退した後、アンカラはセルジューク系のアミールであるダーニシュマンド家の政権やルーム・セルジューク朝、さらにはモンゴル政権であるイルハン朝の支配を受けました。

 アンカラは1356年にオスマン朝のオルハンによって占領され(ムラト1世の時代という説もあります)、以降はオスマン帝国領となりますが、1402年にはこの町の近郊でオスマン朝のバヤズィト1世が中央アジアから来攻したティムールに敗れ、オスマン朝は10年間に及ぶ分裂期を迎えました(アンカラの戦い)。

 オスマン帝国時代のアンカラはアナドル州に属するアンカラ県の県都でしたが、17世紀初頭にアナトリアで発生した大規模反乱であるジェラーリーの反乱の際には反乱側に落ち、その中心地となりました。また、オスマン帝国時代には特産であるアンゴラヤギの毛を用いたモヘヤ生産の発展もみられましたが、19世紀に入るとイギリスがアンゴラヤギの飼育に成功したこともあり、市場での独占性が薄れ毛織物工業は衰退に向かいました。

 1864年には行政区画の改変によりアンカラ州の州都となり、1892年にはアナトリア鉄道(CFOA、トランス・アナトリア鉄道)が開通してイスタンブールやエスキシェヒルと結ばれましたが、全体としてはアンカラは地方の小都市であり、20世紀初頭の1919年においても人口は2万5000人ほどでした。


アンカラを更新するトルコ軍
NA - Afyon Kocatepe University, パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 第一次世界大戦終結後、戦勝国によりオスマン帝国の分割が進められ、さらにギリシャによってアナトリア西南部が占領されると、アンカラにも英仏軍が進駐してきましたが、1920年にこれに反対して決起したトルコ人たちの抵抗政権がアンカラに樹立され、ムスタファ・ケマルがその指導者となってギリシャ軍をアナトリアから撤退させることに成功しました。

 さらにアンカラ政府は1922年、イスタンブールにあったオスマン帝国のスルタンを廃してトルコ国家の単独政府を宣言し、1923年に共和制を宣言してアンカラを首都とするトルコ共和国が樹立されました。

 1923年にアンカラを首都と定める法律が大国民議会で可決され、首都となったアンカラは官僚の移住などにより急速に人口が増大しました。これにより旧市街ウルスが手狭になったため、1924年には新市街(イェニシェヒル)の建設計画が定められました。

 1928年にはアンカラ市全体を対象とする都市計画(マスタープラン)の国際コンペが開かれ、ドイツ人ヘルマン・ヤンセン (都市計画家)が主席を獲得しました。

 1932年から始まった都市整備はこのヤンセンの案に基づくもので、新市街の建設や大火で焼けたウルスの再開発などが行われました。さらに経済発展に伴う都市への人口集中により人口は膨張の一途を辿った結果、旧都イスタンブールに次ぐトルコ第2の都市に成長しました。

気候

 大陸性気候。春と秋に降雨が集中します。冬季は非常に寒冷で-20度以下まで下がることも珍しくありません。


Source:Wikipedia

文化

 アナトリア文明博物館

 トルコ中央部に位置するアナトリア地方の文明、特にヒッタイト時代の遺物を中心とした収蔵物で世界的に知られる博物館です。博物館として使用されている建物はもともと隊商宿として建てられたものです。旧石器時代からヒッタイト、ギリシア、ローマ、ビザンチン時代の収蔵品が回廊にそって見学できます。


アナトリア文明博物館
Nevit Dilmen (talk) - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


アナトリア文明博物館
出典:グーグルマップ・ストリートビュー

 アタテュルク廟(アヌトゥカビル)

 アタテュルク廟とは、トルコ共和国の首都アンカラにある、初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの霊廟の事です。トルコではアヌトゥカビル(Anıtkabir)と呼ばれています。


アタテュルク廟
Bjørn Christian Tørrissen - Own work by uploader, http://bjornfree.com/galleries.html, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8292755による
Source:Wikimedia Commons

教育

アンカラ大学


アンカラ大学
hukukmeydani.com - hukukmeydani.com, パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

沿革
 アンカラ大学(トルコ語: Ankara Üniversitesi)は、トルコのアンカラにある国立大学である。アンカラ大学は初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクによって設立されました。

 1925年設立の司法官憲の養成のために設立された法学校、1933年設立の農業技術研究所、1935年設立の言語、歴史学および地理学の学校。そして政治学を教える1859年創立のメクテビ・ミュルキーイェ(トルコ語: Mekteb-i Mülkiye)[1]などを母体として、1946年設立された。

学部
 法学部
 言語、史学及び地理学部
 神学部
 政治学部
 科学部
 経済学部
 薬学部
 医学部
 歯学部
 工学部
 農学部
 獣医学部
 健康教育学部
 コミュニケーション学部
 教育学部

 ビルケント大学
 チャンカヤ大学

交通


アンカラ地下鉄
Vikiçizer - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
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 エセンボーア国際空港が市の北東28kmの位置にあります。

 トルコ国鉄のアンカラ駅は、国内の重要駅で、トルコ高速鉄道によるイスタンブール-アンカラまでの第一次線が2009年に開業しました。

 近郊の都市へは、アンカラ・インターシティ・バスターミナル(Ankara Şehirlerarası Terminal İşletmesi 通称「アシュティ」A.Ş.T.İ.)から多くのバスが発着します。

 市内交通はアンカラ地下鉄のLRTタイプのアクサライ線と地下鉄路線の2路線あり、さらに3路線が建設中となっています。

アンカラの写真ギャラリー


アンカラ城
Bernard Gagnon - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
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アンカラの夜景
Image Science and Analysis Laboratory, NASA-Johnson Space Center. "The Gateway to Astronaut Photography of Earth." - https://eol.jsc.nasa.gov/searchphotos/photo.pl?mission=ISS032&roll=E&frame=23558, パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Commons



0 May 2012 “Homofobi ve Transfobi Karşıtı Yürüyüş” (Homofobia and Transfobia Square, Ankara.
Nbv - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons



アンカラの風景
Bjørn Christian Tørrissen - Own work by uploader, http://bjornfree.com/galleries.html, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons



アンカラの戦い
不明 - http://warfare.tk/Ottoman/Ottoman.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる不明 -
Source:Wikimedia Commons



Ankara rijkmuseum
匿名 (Turkey) - www.rijksmuseum.nl : Home : Info : Pic, パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


モスクつづく