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エルズムル1(トルコ)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、2020年7月31日公表予定
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 次はトルコのエルズムルです。

◆エルズムル(Erzurum)


Source:Wikimedia Cmmons


市旗
Source:Wikimedia Cmmons

 トルコの東アナトリア地域を代表するのが都市エルズルムです。

 高地にあるため夏は涼しく、冬は零下20度にまで下がることもあります。

 
エルズルムはシルクロード上に位置していることから、古来交通の要衝として重視されてきました。

 そのため、城跡や神学校など多くの文化的遺跡、施設がのこっています。

 エルズルムの南部には、真夏でも残雪がある標高3100メートルのパランドケン山がそびえます。周囲を山に囲まれたエルズルムの水は美味しいことで知られ、街の中には公共の水飲み場が点在しており、魅力ある街、エルズルムのおすすめ観光スポットを5選ご紹介します。 

 参考:skyticket.jp › 観光ガイド


"A Prospect of Erzeron the Capital of Armenia" from Joseph Pitton de
Tournefort's 1717 book Relation d'un voyage du Levant
左上の山はアララト山です
Joseph Pitton de Tournefort - Joseph Pitton de Tournefort (1718). A voyage into the Levant [Relation d'un voyage du Levant] Volume II. London. pp. 194-195, パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Cmmons

概要

 エルズルム(トルコ語: Erzurum)は、トルコの都市。エルズルム県の県都。人口は約36万人(2010年)。多くの歴史的建造物が残されているほか、ウィンタースポーツも盛んである。2011年における冬季ユニバーシアードの開催地になっています。

地理・産業

 古来より、黒海とイランを結ぶ交易路の中継地でした。現在もアナトリア半島を横切って、首都アンカラからコーカサス地方に向かう高速道路・鉄道がエルズルムを通過しており、交通・物流の要所として重要な役割を果たしています。

 海抜約1800メートルの高地に位置しており、周囲を山脈が囲んでいることから、東ローマ帝国時代より砦が設けられ、冷戦期に至るまで軍事拠点としての性格も有していました。

 トルコ東部に位置しており、アルメニア、ジョージア、イランの国境に近い。近隣の都市としては、約180キロ北西で黒海沿岸に位置するトラブゾンなどが挙げられます。

歴史

 ローマ帝国~イスラームの征服

 当初、街の名称はテオドシオポリス(Theodosiopolis)でした。

 これは、東ローマ皇帝テオドシウス2世にちなんだものであり、彼の治世である415年頃に設けられました。いわゆる「絹の道」の途上にあるテオドシオポリス(エルズルム)は、交易・軍事戦略上重要な役割を果たしており、たびたび諸勢力による争奪の的になりました。6世紀初頭には一時サーサーン朝ペルシアによって占領されました。

 また、7世紀に成立したイスラーム教の勢力にも一時は征服されました。彼らはこの都市を「Kalikala」と称しました。11世紀になるとセルジューク朝に征服され、「Arzen Erzen」と称されるようになりました。この地域がかつてローマ帝国(ビザンツ帝国)の統治下にあったことを示す「Rum」と結びつき、「Arzen Erzen al-Rum」が変化して現在の都市名に至ったと考えられています。

 その後、ルーム・セルジューク朝、イル・ハン朝へと受け継がれました。

オスマン帝国の支配

 1515年、オスマン帝国の統治下におかれた。19世紀になると、南下政策をとるロシアに幾度か狙われました。

 ギリシア独立戦争の際に占領されましたが、アドリアノープル条約で返還されました。クリミア戦争でも占領は免れたが近くまでロシア軍が迫りました。

 露土戦争でも占領されましたが、サン・ステファノ条約で返還されました。第一次世界大戦中のエルズルム攻勢(1916年1月10日 - 1916年2月16日)では、一時ロシアに占領されました。この大戦中にアルメニア系住民に対する虐殺(アルメニア人虐殺)、ムスリム住民に対する虐殺が起きました。

トルコ共和国

 第一次世界大戦における敗北を受けて、連合国はオスマン帝国を占領し、帝国領土の解体を図りました。こうした中で、1919年7月より、ムスタファ・ケマルは、ヒュセイン・ラウフ、キャーズム・カラベキルらとこの地で「エルズルム会議(第1回トルコ大国民会議)」を開催しました。

 この会議において、エルズルムなどの帝国北東部が帝国から分離されないことや、スルタン・カリフ位を維持するために国民軍を結成することなどを声明しました。

 このことが、トルコ革命・トルコ共和国建国につながっていました。第二次世界大戦後、アメリカ合衆国との連携を深めたトルコは、1955年より中東条約機構(のちの中央条約機構)の一員としてソ連と対立しました。この冷戦期において、エルズルムは「The Rock」とNATOの暗号で称される重要な軍事拠点でもあったのです。

 1980年代には大規模な地震によって多くの犠牲者が出ています。



 海抜約1800メートルの高地であり、年間を通じて冷涼である。顕著な大陸性気候で夏季は暖かく、日中は30度を超えることもある。冬季は非常に寒冷であり、しばしば-30度以下までさがり、-40度近い気温を観測することもあるほどの酷寒である。最高気温極値は35.6°C(2000年7月31日)、最低気温極値は-37.2°C(2002年12月28日)である。


出典:Wikipedia

文化・観光


チフテ・ミナーレ・メドゥレセスィ(二つの尖塔を有する神学校(マドラサ)
Source:Wikimedia Cmmons

 1957年にはアタテュルク大学が創設され、学生も多く生活している。11世紀に建てられたウル・ジャミイ(最古のモスク)、12世紀に建てられたチフテ・ミナーレ・メドゥレセスィ(二つの尖塔を有するマドラサ)など、セルジューク朝時代の建造物も残されているほか、16世紀に建てられたララ・ムスタファパシャ・ジャミイもあります。

 高地であるため、ウィンタースポーツも盛んです。2011年にはユニバーシアードの冬季大会が開催されました。

スュペル・リグのBBエルズルムスポルが本拠地を置いている。

交通

 首都アンカラやアルメニアへ鉄道が通じているほか、バス路線を通じてトルコ各地の主要都市へと移動できます。空港も有しており、トルコ空軍も使用しています。


Seljuk stone carving on the Yakutiye Medrese, 13th century
Source:Wikimedia Cmmons


エルズムル2へつづく