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  シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

鎖陽城2

(中国甘粛省)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2007年1月~2020年2月  更新:2020年4月1日
独立系メディア E-wave Tokyo
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は中国の甘粛省の鎖陽城2です。

鎖陽城2(甘粛省)です。

外城


外城の南側
Source: Wikimedia Commons
Zanhe - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

 外城も不規則な長方形をしている。その大きさは、東が530.5メートル、西が649.9メートル、北が1,178.6メートルである。南側の壁は東側が497.6メートル、西側が452.8メートルになっている。外壁の基礎は幅が4~6メートルで、壁の高さは4~11メートルである。外城の北側は、内城の北側の内壁によって他の地区と分割されている。[2]

 外城は、唐代に最盛期を迎えた鎖陽城の最大領域と考えられています。南方の山岳からの洪水により、城壁の南側は破壊されて、二つの領域に分断されています。ほとんどの建物が破壊または損傷しており、その残骸は外城で発見され、厚さ70センチメートルの洪水堆積物で覆われていました。外城の城壁は、破壊後に再建または修理されていません。

羊馬城

 外城と内城の間には、「羊馬城」と呼ばれる防塞が存在します。唐代の都市に共通する特徴として、平時には動物(羊や馬)の囲いとして、人と家畜の隔離に用いられ、戦時には軍事的な城障として利用されました。隋代以降に修理や使用された形跡はありません。

城外

塔爾寺

主塔



主塔
Source: Wikimedia Commons
Zanhe - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

 遺跡の東1キロメートルには、古文書に記録されているアショーカ王の寺院と考えられている仏教寺院の遺跡があります。北周の仏教弾圧時、武帝によって廃され、唐・西夏朝期に再建されました。唐の高僧玄奘が天竺巡礼に出発する1ヶ月前に説法した場所とされています。現存するほとんどの遺跡は西夏のもので、主塔と11基の小塔が含まれています。

墳墓

 多くの墳墓が城外、主に南と南東にあります。2,100以上の古墳が発見されており、そのほとんどが漢代からの唐代のものです。

 考古学者による発掘は行われていませんが、特筆すべきは、1992年に盗掘犯によって暴かれた唐代の大規模な墳墓です。唐三彩や埴輪、絹、磁器、硬貨など、多くの唐代の工芸品が墓から発見されています。シルクロード沿いにある最も副葬品の充実した墳墓の一つで、恐らくそれは、瓜州県太守か裕福な商人のものであると推察されます。

灌漑システム

 大規模な灌漑用水路の遺跡が城外に残っており、疏勒河(古くは“籍端水”、“冥水”と呼ばれた)の水を農業に転用していました。 約90キロメートルの水路が、鎖陽城を囲む60平方キロメートルの土地を灌漑していました。漢唐代には30万畝の農地があったと推定されています。中国および世界で最も大規模で保存状態の良い古代灌漑システムの一つです。

歴史

 紀元前111年、漢の武帝は敦煌郡域内に冥安県を設置しました。その所在地は鎖陽城の北東4.5キロメートルでした。西晋、惠帝の時代には、晋昌郡が置かれ、冥安県に郡都が置かれました。現在の遺跡は郡と県の中心都市としてAD295年に建設されたものです。

 西晋滅亡後は、前涼、前秦、後梁、南涼、西梁、北魏などの短命王朝が続きました。全中国を統一した隋の時代に冥安は「常楽県」と改称されました。

 唐代、621年に晋昌郡は瓜州と改称され、常楽県は晋昌県と名前を変え引き続き州都が設置されました。唐代の人口は5万人と推定されています。

 安史の乱により唐朝が衰退すると、776年、鎖陽城は吐蕃の支配下に入りますが、849年、唐の名将、張議潮によって奪還されました。唐滅亡後の1036年には西夏が瓜州を征服し、西夏帝国の軍事上の一大拠点となりました。西夏を征服した元王朝の時代には、瓜州は沙州帰義軍の支配下にありました。


乾燥した鎖陽(オシャグジタケ)
Source: Wikimedia Commons
Zanhe - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

 鎖陽城は明代、「苦峪」と呼ばれました。この名称は1405年に「明実録」に初めて現れます。

 1472年、明の成化帝はモンゴルの脅威にさらされた哈密の君臣らを苦峪に移住させました。1494年、弘治帝は唐・西夏時代の城壁を改修しました。20年後、マンスール・ハンの攻撃を受けて明は東方に退却し、嘉峪関と苦峪はマンスールに占領されました。しかし、モンゴル族、モグーリスタン族、その他の遊牧民族の絶え間ない戦いがこの都市に大きな損害を与え、最終的に都市は放棄されました。

 「鎖陽城」という名称は、唐の将軍、薛仁貴を元に書かれた清代の通俗小説、『薛仁貴征東』に由来する。[3] この小説とそれが生み出した有名な伝説では、薛仁貴の軍卒は突厥に包囲され、城内に自生していた鎖陽(オシャグジタケ、上記写真を参照)を食べて救援部隊が到着するまで生き延びたという。その後廃墟となったこの城郭都市は、鎖陽城として知られるようになりました。

保存事業

 1996年、中国国務院は「中華人民共和国全国重点文物保護単位」 (No. 4-50) として、鎖陽城を指定しました。この遺跡は2010年に国家文物局によって「国家考古遺址公園」の候補地に指定されました。2014年には、鎖陽城は 「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」 の一部として、ユネスコの世界遺産に登録されました。世界遺産登録の領域は15,788.6ヘクタールの広さを誇ります。


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