シルクロードの今を征く Now on the Silk Road ヴェネツィア( Venezia、イタリア) ヴェネツィア共和国の歴史-1 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2019年4月20日 更新2020年3月16日、改訂公表予定2020年7月1日 独立系メディア E-wave Tokyo |
<ヴェネツィア総合メニュー> <はじめに> 共和国の歴史1 共和国の歴史2 共和国の歴史3 共和国の歴史4 共和国の歴史5 古き良き時代のヴェネツィア共和国 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 ◆ヴェネツィア共和国の歴史-1 はじめに ヴェネツィア共和国の歴史では、ヴェネツィア共和国の誕生から滅亡までを解説します。 東ローマ帝国の自治領として誕生した同国は、アドリア海と東地中海での貿易により繁栄し、強力な海軍を背景に、その版図はダルマチアを始めとしてアドリア海沿岸からイオニア海、エーゲ海、キプロスに及びました。 しかし、大航海時代に入ると地中海貿易の重要性が相対的に低下し、またオスマン帝国の侵攻により多くの領土を失ったことにより衰退していき、最終的にはナポレオン・ボナパルトに降伏して滅亡しました。 歴史 最初期 北イタリアでは、東ローマ帝国の影響力が減退するにつれてランゴバルド人やフン族その他の民族による侵略が行われるようになりました。 ヴェネツィアの街の起源は、これらの侵略者に対抗するための、沿岸湖沼地帯における相互扶助組織です。 726年には、これらの湖沼地帯において最初の指導者としてオルソ・イパートが選ばれました。彼は、東ローマ帝国により承認され、ヒパトゥス(ギリシャ語で執政官を意味する)とドゥクス(公)の称号を与えられました。 歴史的には、彼が最初のヴェネツィアのドージェであるとされます。 注)ドージェ ドージェ(伊: Doge)とは、イタリア語で国家元首を指す言葉のひとつで、 ヴェネツィアの元首をはじめジェノヴァ、ピサなどの海洋共和国の元首 の事です。総督、統領と訳されることもある。 伝承では、697年にパオルッチョ・アナフェストがドージェになったといわれています。この伝承は11世紀の助祭ディーコンによる年代記が初出であり、疑義がありますが、慣例的に697年がヴェネツィア共和国の成立年とされています。いずれにせよ、最初のドージェはエラクレーアで誕生しました。 オルソ・イパートの後継者であるデオダート・イパートは、740年代に本拠地をエラクレーアからマラモッコに移しました。彼はオルソ・イパートの息子であり、世襲制を確立させようと試みました。こうした試みは初期のヴェネツィアにおいてしばしば為されましたが、結局、失敗に終わりました。 デオダート・イパートの治世に、ヴェネツィアは北イタリアに残る唯一の東ローマ帝国領となり、さらにフランク王国の強大化はヴェネツィア内の勢力図にも影響を与え始めました。東ローマ帝国との関係を維持しようとする勢力と、東ローマ帝国からの事実上の独立を目指す勢力に加え、フランク王国に近付こうとする勢力が発生したのです。 この親フランク勢力は、主にカトリック教会の僧侶の支持を得て、フランク人であるカロリング朝の王ピピン3世を戴くことによりランゴバルド人からの守護を得ようとしました。少数派としては、ランゴバルド人の王国と手を結び、大国から距離をおき、近隣国同士の平和を重視する勢力も存在しました。 755年にガッラ・ガウロはデオダート・イパートを暗殺し、ドージェの位に就きました。しかし彼は翌年に死亡し、ドメニコ・モネガリオが後を襲いました。彼の治世に、ヴェネツィアは漁村から港町へ、商人の街へと変貌を遂げました。 造船技術も格段に進歩し、ヴェネツィアによるアドリア海支配の礎が築かれました。また、古代ローマを模して護民官が制定されました。毎年二人の護民官が選出され、ドージェの執政を監視し、権力の濫用を防いだのです。ドメニコ・モネガリオは親ランゴバルド派でしたが、後継のマウリツィオ・ガルバイオは親東ローマ帝国のエラクレーア人でした。 彼は764年から787年まで在位し、ヴェネツィアの国力を充実させると共に、世襲制の確立を試みました。また、ヴェネツィアの街をリアルトへ拡張しました。マウリツィオ・ガルバイオの死後、その息子のジョヴァンニ・ガルバイオがドージェとなりました。彼は奴隷貿易を巡ってカール大帝と争い、ヴェネツィア教会との軋轢を招きました。 803年のパクス・ニケフォーリにより、フランク王国のカール大帝と東ローマ帝国のニケフォロス1世は、ヴェネツィアが名目上は東ローマ帝国領でありつつも事実上は独立していることを確認しました。804年にオベレリオ・アンテノレオがドージェに就くことで、2代続いていた世襲の流れは潰えました。彼はカール大帝の神聖ローマ帝国に従属することを選択しました。 しかしピピンによる侵攻を招いたため、オベレリオ・アンテノレオは民衆の怒りを買い、ヴェネツィアがピピンの軍勢に包囲される中で家族と共に逃亡せざるを得なかったのです。ヴェネツィアは最後まで降伏せず、810年、ついにピピン軍を退けました。これ以後、ヴェネツィアは滅亡まで独立を保ちました。 中世初期 811年から始まるパルテチパツィオ家の治世に、ヴェネツィアの街は現代のものへと変貌を始めました。初代のアンジェロ・パルテチパツィオは、エラクレーアの生まれでしたが、リアルトへ移民しました。 彼は、橋、運河、防壁、要塞、および石造建築を充実させ、街は海上へと拡張されました。これが、現代の海上都市ヴェネツィアの原型です。彼の息子のジュスティニアーノ・パルテチパツィオは、マルコの遺体をアレクサンドリアからヴェネツィアへと運び、ヴェネツィアの守護聖人としました。 パルテチパツィオ家からドージェが3代続いた後のピエトロ・トラドニコの下で、ヴェネツィアは軍備の充実を開始しました。これは、後に十字軍やアドリア海の制海権に大きく影響することになります。 彼はスラヴ人やサラセン人の海賊と戦い、海の安全を確保しました。彼の治世は836年から864年に及びましたが、その後継者は再びパルテチパツィオ家から輩出されました。ジョヴァンニ・パルテチパツィオ1世です。 841年頃、東ローマ帝国がクロトーネからアラブ人の駆逐を試みた際、ヴェネツィア共和国は、それぞれ200人を乗せた60隻のガレー船から成る艦隊を東ローマ帝国の援軍として送りましたが、これは失敗に終わりました。 ピエトロ・カンディアーノ2世の時代に、イストリアの諸都市は ヴェネツィアによる経済上の優位を認める条約を締結しました。これを端緒に、ヴェネツィアはダルマチア沿岸における経済大国へと発展します。カンディアーノ家による専制的な支配に対し、972年に反乱が起こりました。そして、民衆に推されたピエトロ・オルセオロ1世が976年にドージェとなったのです。しかし、彼の懐柔路線は政治上の成果を挙げられず、辞職してヴィターレ・カンディアーノに後を譲りました。 991年に就位したピエトロ・オルセオロ2世以降、ヴェネツィアの関心は本土よりもアドリア海に向けられました。バシレイオス2世の金印勅書によりヴェネツィア商人は免税特権を与えられたため、東ローマ帝国との貿易が著しく拡大されたのです。 この種の特権は、東ローマ帝国人にさえ与えられていなかったのです。 1000年には、6隻から成る遠征隊をイストリアに派遣し、ヴェネツィアの宗主権を認めさせました。また、スラブ人海賊を壊滅させることにも成功しました。彼が「ダルマチア公」を自称したことに表されるように、ヴェネツィアは植民帝国への道を歩み始めたのです。 1000年頃のヴェネツィア共和国(赤)。 Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンク 注)ラグーサ(Ragusa) 上の地図の右下にあるアドリア海に面するラグーサ(Ragusa)は、 後のドブロブニクです。現在は、クロアチアの離れ小島的な領土となっています。 なお、現在でも続いている海との結婚の儀式を始めたのはピエトロ・オルセオロ2世です。1008年に彼が死んだ後、息子のオットーネ・オルセオロが後を継ぎましだ。彼は1017年の遠征により、アドリア海の制海権を確固たるものとしました。彼は、この制海権が東ローマ帝国とフランク王国に挾まれてヴェネツィアが生きていく上での要であると考えていました。 11世紀の叙任権闘争、すなわち神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世が聖職者の叙任権を争う中で、ヴェネツィアは中立を保ったために、教皇庁との関係が悪化しました。ドメニコ・セルヴォは、また、東ローマ帝国のアレクシオス1世コムネノスの援軍として、アプリアにおけるノルマン人との戦争に参加し、見返りとして、ドゥラスまでのアドリア海におけるヴェネツィアの支配権ならびに東ローマ帝国全土における免税特権を保証する金印勅書を獲得しました。戦争自体は失敗に終わりましたが、この金印勅書により、ヴェネツィアは名目上も独立を果たしたのです。 ヴェネツィア共和国の歴史2につづく |