シルクロードの今を征く Now on the Silk Road ヴェネツィア( Venezia、イタリア) ヴェネツィア共和国の歴史-2 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2019年4月20日 更新2020年3月16日、改訂公表予定2020年7月1日 独立系メディア E-wave Tokyo |
<ヴェネツィア総合メニュー> <はじめに> 共和国の歴史1 共和国の歴史2 共和国の歴史3 共和国の歴史4 共和国の歴史5 古き良き時代のヴェネツィア共和国 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 ◆ヴェネツィア共和国の歴史-2 中世盛期 聖マルコの馬は、コンスタンティノポリスから1204年に戦利品として持ち帰られた。 Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンク 中世盛期に、ヴェネツィアは東ローマ帝国内における免税特権を活用し、東西貿易や香辛料貿易の仲介者として莫大な富を築きました。アジア全域から集められた商品は紅海のアクスム王国を通るローマ・インド通商路またはレバントを経由して、ヴェネツィア商人の手によってヨーロッパに届けられるようになったのです。 さらにヴェネツィアは、その勢力圏のアドリア海からイオニア海への拡大を試みました。最初の試みは、1084年のドミニコ・セルヴォによるノルマン人との戦いです。彼は艦隊を率いて戦いましたが、敗北し、9隻のガレー船を失いました。 次に訪れた転機は第1回十字軍です。ヴェネツィアは当初、十字軍が対立した東ローマ帝国やファーティマ朝と商業で交流があったために参加を見合わせました。しかし十字軍国家が成立すると1100年から参加し、200隻の船を派遣してシリアの沿岸都市占領を支援しました。 注)第一回十字軍 第1回十字軍(だいいっかいじゅうじぐん、1096年 – 1099年)は、1095年に ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレム の回復のために始められた軍事行動。クレルモンにおける教会会議の最 後に行われた聖地回復支援の短い呼びかけが、当時の民衆の宗教意識の 高まりとあいまって西欧の国々を巻き込む一大運動へと発展した。 十字軍運動においては、一般に考えられているような騎士たちだけではなく 一般民衆もエルサレムへ向かった。彼らは戦闘の末にイスラム教徒を破って、 同地を1099年7月15日に占領した。そして、エルサレム王国など「十字軍国家」 と呼ばれる一群の国家群がパレスティナに出現した。西欧諸国が初めて連携 して共通の目標に取り組んだという点で、十字軍運動は欧州史における重大 な転換点となった。そしていわゆる「十字軍」を名乗った運動で当初の目的を 達成することができたのは、この第1回十字軍が最初で最後となる。 中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃 Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる 1110年、オルデラフォ・フェリエロは100隻から成る艦隊を率い、エルサレム王ボードゥアン1世の援軍としてサイダを攻略しました。そして、1123年にはパクトゥム・ワルムンディによりエルサレム王国における名目上の自治権を獲得したのです]。 こうして1082年の東ローマ帝国での特権、1095年のイタリア王国での独占保証、1123年のエルサレム王国での特権によって、ヴェネツィアは地中海東部を中心とした海外貿易への進出を決定的なものとしました。 12世紀には交易拡大の為に、巨大な国立の造船所「アルセナーレ」を建てました。国の総力を挙げて、戦闘にも商業にも適した新しいガレー商船をはじめとして船舶の種類を増加させ、強力な海軍を持つようになったヴェネツィアは、地中海の覇権を手にする一歩を踏み出しました。 巨大な国立の造船所「アルセナーレ」 1835年のアーセナル、ジュゼッペ・ベルナルディーノ・バイソンによる絵画 L'Arsenale nel 1835, dipinto di Giuseppe Bernardino Bison Source:Wikimedia Commons Pubblico dominio, Collegamento ガレー船 16世紀におけるマルタの典型的な構造を持つガレー船の模型。 この時期がガレー船最後の最盛期となった。突撃船首が確認できる。 Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 3.0, リンクによる 後にヨーロッパ世界の経済を握ったヴェネツィアに、各地から商人が集まってきます。世界で初めて銀行の為替業務が誕生し、各国の大使館が置かれました。ヴェネツィアは東ローマ帝国に対し、有事の際に海軍を提供する代わりに交易上の特権を与えられました。 しかし結果として、これは東ローマ帝国人の多くからの妬みを買ったのです。1182年にアンドロニコス1世コムネノスが帝位を狙いコンスタンティノポリスへ侵攻した際に、ヴェネツィア人は投獄または追放され、その財産は没収されたのです。 最も悪名高い十字軍とされる第4回十字軍においては、ヴェネツィアが人員輸送を担当した。しかし十字軍は船賃を払うに十分な資金を集めることができませんでした。ドージェエンリコ・ダンドロは十字軍に対し、ザーラを攻略することで船賃の代わりとすることを提案しました。 ザーラは1183年にヴェネツィアから離反し、教皇とハンガリー王イムレ1世からの庇護を受けていました。同じキリスト教国を相手に戦うことに十字軍内で異論はあったものの、結局はザーラを攻略しました。十字軍はさらに、やはりキリスト教国である東ローマ帝国に向かい、1204年に首都コンスタンティノポリスを占領、略奪・殺戮・女性に対する乱暴の限りを尽くしました。 ここでヴェネツィアは1182年の事件に対する報復を果たしたのです。ここでヴェネツィアは数多の戦利品を獲得し、例えば聖マルコの馬はサン・マルコ寺院に飾られることとなりました。東ローマ帝国の領土は十字軍参加国の間で分割されました。 ヴェネツィアはクレタやネグロポンテを始めとするエーゲ海の要衝を獲得しました。クレタのカニアの街などは、古代の都市キドニアの上にヴェネツィアによって築かれたものです。エーゲ海の島々は1207年にヴェネツィア領アルキペラゴ公国となりました。 東ローマ帝国はここで一旦滅亡します。1261年に亡命政権であるニカイア帝国が首都を奪回し東ローマ帝国を復興した時には国力が衰えており、後のオスマン帝国の台頭を許しました。この地域の覇権を握ったオスマン帝国はヴェネツィア領を次々と奪うことになり、これは後のヴェネツィア共和国の滅亡の伏線となります。 1295年、ピエトロ・グラデニーゴは68隻の艦隊を派遣してアレキサンドリアにおいてジェノヴァ共和国の艦隊と戦いました。さらに1299年には100隻の艦隊でジェノヴァを攻撃しました。1350年から1381年まで、ヴェネツィアは断続的にヴェネツィア・ジェノヴァ戦争を戦いました。開戦当初は劣勢でしたが、1380年のキオッジャの戦いでジェノヴァ艦隊を撃破し、東地中海の覇権を奪取しました。 ナフプリオの要塞。ヴェネツィアの通商路の安全を確保するため、 東地中海に多くの砦が建設された。 Source:Wikimedia Commons CC 表示 2.5, リンクによる ヴェネツィア共和国の歴史3につづく |