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2018年・東日本大震災
復旧実態調査(岩手県編)

陸前高田市2

青山貞一・池田こみち 
環境総合研究所顧問
掲載月日:2019年5月20日 2020年3月11日第2次公開
 独立系メディア E-wave Tokyo
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◆陸前高田沿岸2 


出典:東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に
関する専門調査会配付資料

 以下は3.11直後の陸前高田市の津波被害の「惨状」の写真である。まさにすさまじいの一言であった。


大きな被害を受けた陸前高田市 [震災翌日]  出典:FNN


大きな被害を受けた陸前高田市 [震災翌日]  出典:FNN



大きな被害を受けた陸前高田市 [震災翌日]  出典:FNN



大きな被害を受けた陸前高田市 [震災翌日]  出典:FNN

 
ここで私たちの2011年8月と11月の二度の現地調査から被害の実態を紹介したい

◆陸前高田市沿岸2

 陸前高田市は、岩手県南東部の太平洋岸に位置する都市である。

 旧陸前国気仙郡に属し、同県大船渡市とともに陸前海岸北部の中核を成していたが、2011年(平成23年)3月に発生した東日本太平洋沖地震による大津波によって都市機能の多くを失った。

 地理的に見ると、陸前高田市は、太平洋に面した三陸海岸の南寄りに位置する。三陸海岸南部はリアス式海岸が続き、西の唐桑半島と東の広田半島に挟まれた広田湾の北奥に陸前高田のある小さな平野が広がる。

 広田湾奥には気仙川が流れこんでおり、その運ぶ土砂で形成された砂浜には高田松原と呼ばれる松原が東西に続く。高田松原の北に中心市街地があり、その北には氷上山がそびえる。広田半島には椿島などの景勝がある。


 陸前高田市は市街地全体が、何ら島嶼や半島などがないため津波を干渉するものがなく太平洋側に向かい合っている。そのため、もろに巨大津波の影響を受けてしまった。有名な松林も、巨大津波の影響を和らげることは出来なかったのである。

参考:第一次調査時のブログより

 下の写真はまさに焦土と化した陸前高田市の中心市街地があった場所に立つ池田こみち。


陸前高田市にて 2011.8.24 撮影:青山貞一

 下の動画を見てもらうと分かるように、ここにあった陸前高田市の中心市街地は、まったく無くなっていることが分かる。



陸前高田市の被災地 2011.8.24 動画撮影:青山貞一


東日本大震災・津波後の陸前高田中心部。 見渡す限り”焦土化”していた! 
出典:グーグルアース

 陸前高田市の被災地調査は、今回で2度目である。下は大船渡市方面から入り気仙沼方面に抜けるまでを撮影した動画である!2011年11月20現在にあって、瓦礫が片付けられたものの、津波によるまちの壊滅状態は変わっていない。

 下は第二次調査:2011年11月20日で撮影した陸前高田市の被災地である。同年8月とほとんど変わっていないことが分かる。


大船渡市から陸前高田市に入る
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20


陸前高田市臨海主要部地図  出典:マピオン

◆陸前高田市 高田松原に残った一本松

 既にニュースでも何回か報道されている陸前高田市の高田松原に残った一本松。今回もまだその姿は健在だったが、地元のニュースによると、海水による根腐れが進行しており、生き続けることが困難になっているという。 

 陸前高田市の人々にとって復興への勇気を与えてくれるシンボル的な存在だっただけに、なんとか持ちこたえて欲しいと願わずにはいられない。



陸前高田市、復旧、復興のシンボルとなっている一本松!
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

 下は、動画で見る陸前高田市、復旧、復興のシンボルとなっている一本松! 

 走行中なのでゆれている。



陸前高田市、復旧、復興のシンボルとなっている一本松!

動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

 なぜ7万本の松原の中でこの一本が残ったのか、そのメカニズムについて、NHKが特集番組を放送しているのでそちらを見て頂きたいが、海側に鉄筋2階建て宿泊施設があり津波のエネルギーが分散したことや、引き波は高さ6メートルの堤防法面で弱められたこと、さらに、なんと言ってもこの松の木の高さがその他の松林の松の1.5倍の30mの高さが大きな力になったようだ。

 最近、被災地ツアーというバスツアーが結構人気を呼んでおり、東京などからも大勢が参加している。今回も何台か観光バスを見かけたが、陸前高田市では、必ず観光バスが足を止めるのが一本松の見える海岸の通りである。 

 私たちが写真を撮影している最中にも東京からの大型バスが通ったが、やはり皆、携帯カメラやデジカメを一本松に向けていた!

 ニュースなどでさんざん目にしている被災地ではあるが、やはり現場を見ることによってその悲惨な現実を改めて身近に感じることができることは間違いない。

 そうした被災地ツアーには、被災者から直接お話を聞くプログラムや地元の物産を買い求めるプログラムも組み込まれており、地元にも喜ばれていると聞く。


 現場を訪れ、被害者の話を聞くことでこれからも長く支援を続けることの大切さに気づかされ行動へと結びつくのだろう。

 私たちの現地調査の報告もそうした動きにつながる一助となれば幸いである。


 以下は私たち現地調査を行っている11月20日の陸前高田の一本松に関連する毎日新聞朝刊の記事である。

<陸前高田の一本松>絵本に 「再生への希望に」
毎日新聞 11月20日(日)11時15分配信

 ◇岩手出身のなかださん

 東日本大震災に負けず、力強く生きる植物をテーマにした絵本が次々と出版されている。イラストレーターのなかだえりさん(37)は、岩手県陸前高田市の名勝・高田松原で激しい津波に耐え、たった1本残った松を描いた絵本「奇跡の一本松」(汐文社、1890円)を先月出版した。同県一関市出身のなかださんは「ふるさとを襲った大災害を伝え、再生への希望の光をともしたい」と話している。【木村葉子】

 なかださんは震災後2日間、実家と連絡が取れず不安に襲われた。幸い家も家族も無事だったが、知人の中には津波で自宅を流された人もいた。

 高田松原は子どものころ海水浴を楽しんだ思い出の地。だが今年8月に訪ねた際、見慣れた風景は消えていた。「ぼうぜんとして涙も出なかった」時、目に入ったのがたった1本残った松。「希望が見えた」という。

 地元住民らで作る「高田松原を守る会」などを取材し歴史を調べた。松原は1667年、旧高田村の豪商、菅野杢之助が津波、高潮の被害から田畑を守るため松を植えたのが始まり。津波の被害に度々遭いながら田畑や人々を守り、東西2キロ、7万本の松原に育った。

 一本松の高さは約30メートル。背が高く波が枝葉に直接かからなかったうえ、周囲の背の低い松などにより津波の衝撃が緩和され、奇跡的に生き残ったらしい。

 絵本では、荒々しい黒い水の塊が押し寄せ、松原をなぎ倒す津波や嘆き悲しむ人を描いた。印象的なのは松原の復興に尽力する人たちの姿だ。最終ページには新たに若木が植えられた松原と穏やかな海、ニッコウキスゲなどの花々を描いた。

 なかださんは「全国の子どもたちに高田松原のことを知ってほしい。いつか必ず松原を取り戻せると信じたい」と話す。


 ◇花題材に震災描く作品も

 仙台市出身の児童文学作家、光丘真理さん(53)は絵本「タンポポ あの日をわすれないで」(山本省三絵、文研出版、1365円)を先月、出版した。

 光丘さんは取材で訪れた宮城県内で被災した。交通網が寸断されて東京に戻ることができず、知人宅などで1週間過ごした。3カ月後、宮城県南三陸町の志津川小学校を訪ねた。その時に見た校庭に咲き乱れるタンポポがテーマだ。

 主人公は小学校で被災した女の子。高台の学校から見た津波や避難所生活、家族を亡くした友達が転校する姿が描かれる。しかし子どもたちの笑顔はがれきの中に咲くタンポポのように力強い。光丘さんは「被災地や被災者のことをいつまでも忘れず、力になっていきたい」と話す。.

◆津波の記憶、桜に託す 到達地点に1万本計画 陸前高田
 2011年10月28日 朝日新聞 

 東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市で、津波が到達した最高地点を結びながら1万本以上の桜の木を植えていく計画が動き始めた。毎春、淡いピンクが連なる「花の警戒ライン」で震災の教訓を風化させずに後世に伝えたい。地元被災者らの思いだ。

 漁師佐藤一男さん(45)ら被災者やボランティアの10人が実行委員会を作った。過去の津波の到達点を知らせる石碑が各所にあったのに、忘れられて犠牲を繰り返したことの反省が出発点だった。毎年花を見て記憶を呼び起こせるよう、桜を選んだ。

 津波が到達した線に沿って10メートル間隔で苗木を植える計画だ。市内で約173キロ。すべて植えれば約1万7300本の桜が連なる。

 実行委は、被災者を訪ねて津波の到達点を調べている。11月6日には同市高田町の浄土寺境内に最初の5本を植える。早ければ来春にも少しずつ花をつけるはずだ。今後、土地所有者の許可を得ながら順次、植えていくという。

 佐藤さんは「津波を思い出す悲しさがあるけど、次の津波が来た時に桜より上に避難して命を守って欲しい」と願う。

 苗木を買う費用の寄付を募っている。問い合わせは、佐藤さんが自治会長を務める米崎小仮設住宅集会所(0192・47・3399)へ。(森本未紀)



●参考データ(岩手県陸前高田市)

■岩手県陸前高田市の死者数と行方不明者数

市町村名 死者数A 行方不明者数B 死者+行方不明者数A+B=C
陸前高田市 1,546 562 2,108

 以下は岩手県大槌町における過去の津波被害

●陸前高田市

 同資料によれば、現在、陸前高田が市町村合併する前の各町村では、明治三陸津波で845人の住民が亡くなっていることが分かる。

 とりわけ重要なのは、陸前高田の根崎・集地区にて明治三陸津波による波高が最高で32.6m、昭和三陸津波の波高でも21.5mもあったことである。おそらくこの波高は地形に原因があったと推察されるが、我が国の過去の津波の波高にこのような大きな値があったことは、直視する必要があると思う。

 今回の東日本大震災・津波では、陸前高田全体で2,098人の甚大な被害者を出している。



陸前高田市臨海主要部地図  出典:マピオン

★根崎・集(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:32.6m*  *32.60m(C1934)
死者:570人(広田村)
流失倒壊戸数:146戸(同上)
  波高:28.87m(根崎・集)*  
   *28.87m(根崎・集)(C1934)
死者:2人 (同上)*  *2人(同上)(C1934)
流失倒壊戸数:*  *24戸(同上)(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):*
   *1.65ha(同上)(C1934)
浸水家屋:*   *1戸(同上)(C1934)
★高田(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
死者:19人
流失倒壊戸数:1戸
  死者:3人
流失倒壊戸数:
家屋流失倒壊区域(坪):
浸水家屋:4戸
沼田(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:4.21m
死者:11人(米崎村)
流失倒壊戸数:18戸(同上)
  浸水家屋:32戸(米崎村)
脇ノ坂(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:4.21m
死者:11人(米崎村)
流失倒壊戸数:18戸(同上)
  波高:3m
死者:8人
浸水家屋:32戸(米崎村)
中沢浜(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
死者:570人(広田村)
流失倒壊戸数:146戸(同上)
死者:2人
流失倒壊戸数:50戸(泊・中沢浜)
家屋流失倒壊区域(坪):10500坪(同上)
移動戸数:45戸(同上)
★泊(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:6m* *6m(C1934)
死者:570人(広田村)
流失倒壊戸数:146戸(同上)
  波高:4m *   *4m(C1934)
死者:7人 *   *6人(C1934)
流失倒壊戸数:50戸(泊・中沢浜)* 
  *59戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):10500坪
  (同上)*  *3.47ha(C1934)
浸水家屋:*   *10戸(C1934)
移動戸数:45戸(同上)
達成面積(坪):2735坪(同上)
★大洋(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
死者:570人(広田村)
流失倒壊戸数:146戸(同上)
再生形態:
  浸水家屋:4戸
★長洞(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
死者:570人(広田村)
流失倒壊戸数:146戸(同上)
  死者:3人
浸水家屋:8戸
★唯出(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:9.2m*   *9.2m(C1934)
死者:203人(小友村)
流失倒壊戸数:56戸(同上)
再生形態:分散移動
  波高:7.7m*   *7.7m(C1934)
死者:8人 *   *8人(C1934)
流失倒壊戸数:35戸*  *33戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):8500坪* 
  *2.81ha(C1934)
浸水家屋:35戸 *   *2戸(C1934)
再生形態:分散移動
移動戸数:19戸
達成面積(坪):1113坪
★両替(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
死者:203人(小友村)
流失倒壊戸数:56戸(同上)
  浸水家屋:28戸
再生形態:分散移動
三月市(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:1.4m
死者:203人(小友村)
流失倒壊戸数:56戸(同上)
波高:1.7m
浸水家屋:30戸
再生形態:分散移動
★森崎(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
死者:203人(小友村)
流失倒壊戸数:56戸(同上)
浸水家屋:1戸

★塩谷(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
死者:203人(小友村)
流失倒壊戸数:56戸(同上)
谷ノ浦(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
死者:203人(小友村)
流失倒壊戸数:56戸(同上)
砂盛・古谷・双六・要谷・福吉(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:3.45m
死者:42人(気仙町)
流失倒壊戸数:36戸(同上)
波高:3.85m
浸水家屋:16戸
★長谷(現在、陸前高田市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:3.45m* 
  *3.45m(C1934)
死者:42人(気仙町)
流失倒壊戸数:36戸(同上)
波高:3.85m*  *3.85m(C1934)
死者:31人*   *32人(C1934)
流失倒壊戸数:105戸*  
  *102戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):8688坪*  
  *2.87ha(C1934)
浸水家屋:62戸 *  *3戸(C1934)
再生形態:地区改正
移動戸数:86戸
達成面積(坪):5364坪
参照・引用文献の出典:
 ・明治大学 建築史・建築論研究室著の「三陸海岸の集落 災害と再生」
 ・青山・池田:三陸海岸 津波被災地現地調査 過去の津波被害(詳細)

津波の高さ(推定値)

 
今回現地調査した陸前高田市地区は、水門、道路、堤防、公共施設などの破壊状況、沿岸背後地の樹木、土壌、地層などへの影響などからTPから15m以上の津波高及び21m以上の遡上高が生じたと推定される。

 とくに津波の高さに関しては、以下のグラフに見るように東日本大震災で最も高い津波が襲撃したものと推察される。


津波の高さ


出典:社会実情データ図録

 参考・東北地方太平洋沖地震津波情報
     東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ 
     グラフィックスで見る日本沿岸の津波高
     津波現地調査結果/岩手県 
     過去の津波情報


陸前高田3につづく