東南アジア最後の秘境 ミャンマー ミャンマー最大のパゴダ シュエダゴンパゴダ(2) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2016年8月4日 独立系メディア E−wave Tokyo 無断転載禁 |
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(11) シュエダゴンパゴダ@ (12) シュエダゴンパゴダA (13) シュエダゴンパゴダB (14) シュエダゴンパゴダC (15) シュエダゴンパゴダD (16) シュエダゴンパゴダE (17) シュエダゴンパゴダF (18) ヤンゴン二日目の夕食 ◆パゴダ(Pagoda)とは パゴダ (pagoda)、ミャンマー語でパヤーとは仏塔(ストゥーパ)を意味する英語であり、とくにミャンマー様式の仏塔のことを意味しています。日本の仏塔と同様、仏舎利(釈迦仏の遺骨等)または法舎利(仏舎利の代用としての経文)を安置するための施設です。 パゴダの直接の語源はポルトガル語のパゴデ (pagode) であるとされています。さらにその語源は、ペルシャ語で「神像の家」という意味の butkada であるとされています。タミル語で「神に属する家」という意味の pagavati という説もあります。 ミャンマーの人々にとって、パゴダは釈迦がいなくなって以来、釈迦に代わる存在であり、「釈迦の住む家」であるとされいます。従ってパゴダを建てることは、ミャンマーでは「人生最大の功徳」とされ、そうすることにより幸福な輪廻転生が得られるとされているのです。 ミャンマーでは全国各地、津々浦々にこのパゴダがつくられてきましたが、とりわけ北東部のバガン(Bagan)には、現在でも4000を越すパゴダが存在しています。一説によると往事は15万以上ものパゴグだがあったとされています。 下の2枚の写真はいずれもバガンで撮影したパゴダそしてパゴダのなかの仏像です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-6 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-6 「釈迦の住む家」であるパゴダに入るときは履物を脱ぐことが求められ、靴や靴下(ストッキングを含む)を履いて入ることは許されません。実際、ミャンマー旅行中、履物を脱ぐことが求められ問題はその都度結構大変でした。 ◆シュエダゴン・パゴダ(Shwedagon-Pagoda)の歴史 ヤンゴンだけでなくミャンマー全体の中心となっているパゴダといえば、それはまちがいなくヤンゴンにあるシュエダゴン・パゴダ(Shwedagon Pagoda)であると言えます。シュエダゴン・パゴダはミャンマーのヤンゴン中心部に存在する寺院でもあり、ヤンゴンのみならず全国各地の国民に「釈迦の住む家」とされています。 そのシュエダゴン・パゴダの歴史は、一説によれば約2500年以上前までさかのぼるといわれています。当時、インド人商人が釈迦からもらった聖髪をもらい受け、この地に納めたのが起源とされています。 それ以後、度重なる修復を繰り返し、現在の形になったといわれています。伝説とは別に、考古学的研究によれば6〜10世紀の間に建立されたと考えられています。 シュエダゴンパゴダの歴史 出典:Map Sgwedagib Pagoda シュエダゴンパゴダの歴史 出典:Map Sgwedagib Pagoda なお、1608年、ポルトガルの探検家フィリプ・デ・ブリト・エ・ニコテは、シュエダゴン・パゴダを略奪し、大砲を作るために、30トンに及ぶ鐘を溶かす、というものでしたが、鐘を運んでバゴ川を渡る際に、鐘を川に落としてしまい、二度と回収できませんでした。この鐘楼はシン・シワブ王(Shin Sawbu)を1485年に引き継いだダマゼディ王(Dhammazedi)によってシュエダゴン・パゴダに寄贈されたものです。 その2世紀後、第一次英緬戦争中の1824年5月11日、英国がミャンマーに上陸し、シュエダゴン・パゴダンをヤンゴンのまちを見下ろす指令のための要塞である思い込み、奪取、占領しました。そして英国軍は2年後にヤンゴンから退去するまで、ストゥーパを要塞のようなものとして思い込み続けたとされています。 シュエダゴン・パゴダは地震によって幾度も破壊されており、現在の仏塔の原型は15世紀ころ成立したと考えられています。 下は英国人が見たパゴダ(1825年)です。 英国人が見たパゴダ(1825年) 出典:Wikipedia 下は第二次世界大戦後のシュエダゴン・パゴダの写真です。 第二次世界大戦後のシュエダゴン・パゴダ 出典:Wikipedia 第二次世界大戦後のシュエダゴン・パゴダ 出典:Wikipedia なお、入場券の裏側にあったシュエダゴン・パゴダについての英文の翻訳です。
つづく |