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インワの歴史
History of Inwa(Ava)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2016年8月4日
独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁
(58) 王朝が400年続いたインワへ  (59) インワへ(1)  (60) インワへ(2)
(61) インワの歴史  (62) 古都インワに到着  (63) 馬車で視察 残存城壁


 先に進む前に、まずはいつものようにインワ (Inwa Ava)の歴史を紹介します。

出典は英文のWikipediaです。インワは時代によりアヴァ(Ava)と呼ばれています。

◆歴史

 外壁が現存していますが、1365年から1842年の時代、5つの機会に分断されては居たものの、およそ360年間にわたり、インワがビルマの首都でした。

 ビルマの権力の中枢であったことが明らとなったことにより、インワ(アヴァ王国あるいはアヴァ王宮)という名前が、ビルマが19世紀にかけてヨーロッパに知られるようになったのです。


出典:グーグルマップ

◆基礎

 戦略的にイラワジ川とMyitnge川の合流点に位置し、稲作を中心とする上ビルマのKyaukse地域にあったことから、アヴァは、1310年の初頭からThihathu王によって首都の候補地として挙げられていたのです。

 Thihathu王は結局、1313年に数マイル東側の内陸に位置するピニャ(Pinya)に新しい首都を建設しましたが、王の曾孫にあたるThado Minbyaが1364年にサガイン(Sagaing)とピニャ王国を統合し、新しい首都として、インワを選んだのです。


廃墟の外壁     出典:英文Wikipedia

 インワは正式には1365年2月26日に創建されました。そこは、北のイラワジ川、東のMyitnge川を繋ぐ人工島の上に位置し、南側と西側には運河が造られました。人工島の建設のため、沼沢地や湖を埋め立てる作業を伴いました。

 以下は埋め立てられた湖のリストです。

 1.Shwekyabin In
 2.Zani In
 3.Nyaungzauk In
 4.Wetchi In
 5.Ohnne In
 6.Inma In
 7.Linsan In
 8.Bayme In
 9.Wunbe In

 その他にも、これらの3つの湖が埋め立てられたとする記録もあります。

 インワの煉瓦の要塞は、当初の直線的な都市計画の慣例にはなじみませんでした。代わりに、ジグザグした外壁は獅子の座像(王の都)の輪郭を描くにはよりふさわしい方法でした。内側の囲い、あるいは要塞(シタデル)については、伝統的な宇宙論的な原則に基づいて必須となる12の門を設置しています。(市内は少なくとも、1597年、1763年そして1832年の3回、再建されています)

◆アヴァ時代(14から16世紀)

 Thado Minbya王国が首都をインワに置いてから、アヴァ王国は1555年まで、上ビルマの主要な国家組織として知られるようになりました。

 この時期、インワは最も文学・文芸の中心として栄え、ビルマ文学が自信に満ち、人気を博し、修辞的・文体的にも多様でした。その背後には、パーリ語(仏教の聖典)ではなく、日常の言葉で書くことを選んだ僧侶たちの努力がありました。


アヴァ時代の廃墟  出典:英文Wikipedia

 また、同時にこの時期には、ビルマの法律(dhammathats)の第二世代を見ることができます。

 そこでは、初期の編集や新しい詩的な様式(ジャンル)、および古い韻文形式の完璧さとともに、最も初期の汎ビルマ・ビルマ語言語による年代記をも批判しました。

 インワの町は、1511年2月にこの上なく美しい金の王宮を持つことになります。これにより、Shwenankyawshin王が死後も記憶されることになりました。

 この時期、首都は王国の敵国にとって標的となりました。40年戦争の間の1404年〜1405年に砲撃にさらされました。その後1世紀を経た1527年3月25日、遂にインワの町はシャンとプロメ王国の同盟軍による執拗な攻撃によって完全に陥落しました。

◆トウングーとコンバング時代(16世紀〜19世紀)

 町は、ToungooとKonbaung時代 (1599〜1613, 1635〜1752, 1765〜1783, 1821〜1842)
に、ビルマ全土の首都となりました。この町がベースとなり、Nyaungyan王とAnaukpetlun王は、一時的に分断されていた王国を1599年12月に復興しました。1635年1月には、Thalun王は、首都をPeguからAvaに戻しました。

 町は、復興したHanthawaddy王国の力によって、1752年3月21日〜23日の間に略奪され、
1753年1月3日完全に焼け落ちました。Hsinbyushin王は、1764年3月に町の復興に着手し、1765年7月23日に新たに復興したアヴァに首都を移したのです。

◆終焉

 町の周辺は自然災害によってもたらされたのです。1839年3月22日に始まった複数の地震がインワ−アマピュラ地域を襲いました。大規模な地震がその地域を襲い、1839年3月23日、翌日の朝5時には、サガインの西の果まで及び、その日は繰り返し揺れが続きました。その地域全体が翌朝には修羅場と化していました。

 首都が最も激しく揺れを受け、すべてが崩壊してしまいました。多くの人々や家畜が全滅しました。そして、その後、町が再興されることはありませんでした。Tharrawaddy王は、アマラプラに新しい王宮を建てる代わりに、1842年2月、政府の中枢を移動させました。

◆近代

 昔の首都の町(インワ)は、マンダレーからの日帰り観光として人気の場所となっています。観光客は今でも、いくつかの首都としての面影、遺跡を見ることができます。Nanmadaw Me Nu Ok Kyaung, the Nanmyin Tower、そして内外の煉瓦の擁壁もそのひとつです。


つづく