東南アジア最後の秘境 ミャンマー バガンの歴史(2) History of the Bagan 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2016年8月4日 独立系メディア E−wave Tokyo 無断転載禁 |
(77) バガンの全体地図 (78) バガンの概要 (79) バガンの歴史(1 (80) バガンの歴史(2) (81) バガン王朝とは(1) (82) バガン王朝とは(2) ◆バガンの歴史 14世紀〜19世紀 バガン(Bagan)は、帝国時代を通して、人々の定住地として、また、巡礼の旅の終点として15世紀になっても生き残っていました。僅かな数の「新しく印象的な」宗教的モニュメントが15世紀の中頃まで創られましたが、その後は、新しい寺院の建設は一段落し、15世紀〜20世紀にかけては、200に満たない数の寺院がぽつぽつと建設されたに過ぎません。 古都は巡礼の終点として生き残りましたが、巡礼はもっぱら、数千の中で最も突出したアーナンダ、シュウェジゴン、シュラマニ、Htilominlo、そして、Dhammayazikaといった古い道路沿いの寺院にのみ集中していました。 Dhammayangyiパゴダ内部の仏像 Source:English Wiki アーナンダ寺院 Source:English Wiki その他の数千の無名で、道から外れたところにある寺院は、修復もされないまま放置され、その後の時代まで生き残ることは出来ませんでした。 継続的に支援を受けた数十箇所の寺院は、その後も、建物の維持のために定期的支援を受けると共に、熱心な帰依者による建築上の追加(工事)についても支援を受けました。 多くの寺院は、パガン時代のオリジナルの上に新しいフレスコを描き、あるいは、新しい仏像をはめ込んで修復されました。 その後、コンバウン朝時代(1752〜1885)には、一連の国の支援によりシステマチックな改修が行われましたが、それらの修復のなかには、オリジナルのデザインとは異なるものもがあり、「仕上げが荒っぽい表面仕上げとなって趣がなく、芸術性や成果がないものもいくつかありました」。 また、いくつかの寺院の内装は、ThathyinnyuやAnadaのように、真っ白に白塗りされました。多くの碑文書がかかれ、またフレスコ壁画などもこの時代に描き加えられました。 ◆20世紀から現代まで Bupayaは1868年には、オリジナルの建物をこの場所で見ることのできましたが、1975年の地震で完全に破壊されました。新しいパゴダは旧来の形をしていますが、金箔で塗られ、再建されたものです。 バガンは、活発な地震ゾーンに位置しており、何年もの間、多くの地震の被害を受けてきました。1904年から1975年の間に記録に残る地震の数は400を超えています。最後の大きな地震は、1975年の7月8日に発生し、バガンとMyinkabaでは8MM、ニャンウーでは77MM(の規模)を記録しています。地震は多くの寺院を破壊し、Bupayaの例のように多くの場合、非常に深刻で回復不能な被害を受けました。 被害を受けたパゴダの多くは、軍事政権によって1990年代に再建されることになり、その結果、バガンは世界各地から観光客の集まる場所へと変貌しました。しかし、(歴史的遺産や資源)回復のための努力は、一方で、世界中の芸術分野の歴史家や(文化財)保護活動家らから、広い分野にわたって非難を受けることになりました。 批評家たちは、回復事業がまったくオリジナルの建築様式に注意を払っておらず、新しい素材を使っていたことに加え、政府はゴルフコースをつくったり、高速道路を整備し、さらには、高さ61mの監視塔を建設したことに仰天しました。 ミャンマー政府は、古都の数百の壊れたままの寺院や大きな石の銘板はUNESCO 世界遺産登録地として指定されるうえで十分と信じていたのですが、伝えられるところによると、バガン市は、遺産の修復について特に指示や命令を受けなかったといっています。 今日のバガンは、国の発生期の観光産業における主要な目的地となっていますが観光業そのものは、長い間いろいろな面でボイコットの標的となってきました。2011年には30万人を超える観光客が世界各地からミャンマーを訪れましたが、その多くがバガンを訪れていると思われます。ビルマの出版物のいくつかは、バガン市の小さな観光基盤が次の年に小規模な(質素な)観光旅行のお客をピックアップできるようにするためにも、速く大きくならなければならないと、強調しています。 つづく |