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パガン王朝とは(1)
Pagan Dynasty

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2016年8月4日
独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁
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◆パバガン王朝の概要

 パガン王朝は現在のミャンマーに存在したビルマ族初の王朝です。

 ビルマ語による王統史での雅称はアリー・マッダナ・プーラ(征敵の都)です。首都はパガン。「パガン」とは「ピュー族の集落」を意味するものと考えられています。国王が55代続いたと言うことが伝統的王統史には書かれていますが、出土品と碑文によってこの論はおおむね否定されています。

◆歴史

ビルマ族の南下と王権の確立

 南詔の尖兵として上ビルマに存在していたピューを征服し、その後、イラワジ平野に定住したビルマ族を祖先とします。

 849年ごろに彼らが都を築いたパガンの地は降水量が少ないミンブー地方の中間点に位置していました。ビルマ族は先住していたピュー族から農耕技術を学び、彼らとの接触によって仏教を知ったと考えられています。

◆南詔(なんしょう)

 南詔は、8世紀半ば、中国西南部、雲南地方の?海地区に勃興したチベット・ビルマ語族の王国。最盛期には四川や東南アジアにまで勢力を拡大しましたた。


南詔の位置  

◆ピュー(Pyu)

 ピュー(Pyu)とは、かつてミャンマー(ビルマ)のエーヤワディー川流域に居住していた民族集団です。ピューは他称で、漢文史料の「驃」「剽」などの表記、ビルマ語のピュー(Pyu)に由来します。

 10世紀以前に建設された7つのピューの城郭都市が発見されています。城郭都市と周辺の地域に共通する出土品から、かつてエーヤワディー川流域では一大文化圏が形成されていたと考えられており、その文化圏はピュー文化圏と呼ばれています。

 城郭都市の遺跡は下図に見るように、エーヤワディー中流域にほぼ一直線に並んでおり、最南端のタイェーキッタヤーが最も新しいものとなっています。

 ピュー族の言語は完全に解読されておらず、歴史や社会の研究の大部分は考古学的発見と他民族が記した史料に依拠しています。


ピューの城壁都市の位置

出典:Wikipedia

 現存する王朝の出土品から初めて実在が確認されます。王統史の言う「44代目」のアノーヤター(1044年 - 1077年)が最初の王とされています。

アノーヤター【Anawrahta】

 アノーヤター(1014年5月11日 - 1077年4月11日)はビルマ族の最初の王朝であるパガン王朝の最初の王(在位1044年8月11日 - 1077年4月11日)とされる人物です。

 伝説によればソーヤハンと呼ばれるビルマ人の王がいましたが、これを暗殺し王に就いたチャウンビューという男がいたといいます。アノーヤターはチャウンビューの息子とされます。

 アノーヤターは、ソーヤハンの息子がチャウンビューを殺し、王位に就いたのを見て、逆にこれを暗殺し王位に就いたといいます。

 軍人としてのアノーヤターはそれまでエーヤワディー川沿いを中心に展開していたパガン王朝の領土拡大を画策し、モン族の支配するタトンや、シャン族を掌握、遠くインド、雲南まで兵を送りました。これにより、パガン王朝はその名をとどろかせ、東南アジアの一大王国となったのです。

 内政面では、それまで時に王の威光をも凌いでいたアリー僧と呼ばれる大乗仏教僧とおぼしき宗教集団がいましたが、これを嫌ったアノーヤターはこの集団を解散させ、シン・アラハンと呼ばれるモン族の上座部仏教僧により国内を上座部仏教本位にしました。

 アノーヤターは1077年森の中で不慮の死を遂げるが、この王がビルマ人を一大民族に仕立てた功績はその後も語り継がれ、ビルマでは英雄視されています。

 以下は考古学博物館の一階にあるバガン王朝初代国王、アノーヤター像です。


出典:NHK アジア巨大遺跡 ミャンマーバガン遺跡


 アノーヤターは四方に軍を進め領土を広げ、南方のモン族のタトゥン王国の都モッタマ(現在のタトゥン地区)を制圧した際、モン族の文化を取り込みビルマ文化の構築に貢献しました。また、国内の統制を高めるために密教的な大乗仏教僧と見られるアリー僧の排除に取り掛かり、国を上座部仏教(小乗仏教)に変えました。

 魔力によって民衆に影響を及ぼすアリー僧を弾圧することで、民衆との連帯を強化しました。アノーヤターの名前が刻まれた磚仏は彼が実在の王であることを示すとともに、その土地は彼が築城したと王統史に記録される城砦とほぼ一致しています。

全盛期

 3代目のチャンシッターは、アノーヤター時代の遠征、即位後の下ビルマで起きた反乱の平定やクメール王朝との戦いで活躍した優秀な軍人でした。内政でも灌漑の推進、ビルマ族とモン族の融和によって国内の開発と安定に尽力しました。

 しかし、チャンシッターがアノーヤターの血統に属していないことを推測できる要素が碑文と王統史の両方に存在しています。 おそらく彼の即位によってアノーヤターの血統は一度途絶えたと思われます。ナラトゥーが交易の利権をめぐってのシンハラ王朝の入寇によって戦死した後、その子のナラティンカーが即位します。しかし、碑文にナラティンカーの名前は確認できません。

 ナラティンカーの後、アノーヤターの血を引く王子ナラパティシードゥーが即位、王統史にはナラパティシードゥーがクーデターによってナラティンカーを廃位した過程が記録されています。王朝はこのナラパティシードゥーの元で最盛期を迎えます。

 チャウセー、シュエボー(Shwebo Township)で灌漑を実施して生産力を高め、支配領域をマレー半島の付け根にまで広げます。文化においても、ビルマ独自の文化の萌芽が見られるようになりました。

 ナラパティシードゥーの死後、アノーヤターの血統は保たれますが、チャゾワーの治世から寺領の増加による収入の減少、治安の悪化が国の発展に影を落とします。オウサナーとその子ミンヤンは暗殺者の手によって落命する不幸な最期を遂げ、次のナラティーハパテの治世に王朝の国難が始まります。


パガン王朝の支配領域(12世紀)

滅亡

 オウサナーの死後、ミンヤンの子であるナラティーハパテが即位しました。かつては隆盛を極めたパガン朝でしたが、1253年にはビルマ北部にあった大理国がモンゴル帝国の手に落ちたことにより、その存在が脅かされます。

 過度の寺院への寄進によって財政は悪化し、王家と姻戚関係によって王宮内での影響力を強め、ミンザイン王国(en:Myingyan)に軍事力を有するシャン族の3兄弟、アサンカヤー、ヤーザティンジャン、ティハトゥの台頭が始まりました。

 1277年、元はパガンに贈った朝貢を求める使者が行方不明であることと、臣従先をパガンから元に乗り換えた金歯族がパガンの攻撃を受けていることを理由に軍を派遣し威嚇攻撃しました。その後もナラティーハパテが、元に対し従順を見せなかったため、元は1286年に雲南王フゲチの子である雲南王エセン・テムルを征緬副都元帥として派遣しました。

 翌1287年のパガンの戦いで、ナラティーハパテはパガンを放棄し南ビルマのパテインに逃亡、パガンは陥落し、モンゴル軍撤退の条件として元への朝貢を承諾したのです。

 パガンへの帰還の途上でナラティーハパテは庶子ティハトゥに毒殺され、ナラティーハパテの長子ウザナと庶子ティハトゥも後継者争いで落命、生き残ったナラティーハパテの子チョウスワーが即位しました。

 チョウスワーは元に対して朝貢を行って王位を認められますが、独自に使節を送っていたシャン族のアサンカヤーも元から璽を与えられ支配権を認められていました。また、1281年前後からビルマ南部の港湾都市モッタマで反乱が起きており、1287年にモン族のワーレルーがスコータイ朝の後援によってモッタマにペグー王朝を打ち立てました。

 1299年頃、シャン族の3兄弟とナラティーハパテの妃ソウの共謀でチョウスワーは廃位され、その子ソウニッが王に擁立されます。大都に亡命したソウニッの兄弟の要請によって1301年にビルマにモンゴル軍が侵入しますが、アサンカヤーは防衛に成功、アサンカヤーの勝利は碑文の記録でも称賛されています。

 3兄弟に擁されたソウニッは実権を有さない名目だけの王であり、1314年にパガン王家に代々伝わる金帯と金盆がティハトゥに送られたことで王朝は名実共に滅亡しました。譲位後ソウニッはパガンのミョウザー(地方知事)に任ぜられますが、1369年にその子ウザナ二世が没した時にパガン王家の男子継承者は断絶しました。


◆アノーヤター以後のパガン(バガン)の王(11世紀から14世紀)

 アノーヤター(1044年 - 1077年)
 ソウルー(1077年 - 1084年)
 チャンシッター(1084年 - 1113年)
 アラウンシードゥー(1113年 - 1165年)
 ナラトゥー(1165年 - 1170年)
 ナラティンカー(1170年 - 1173年)
 ナラパティシードゥー(1173年 - 1210年)
 ナンダウンミャー(オウサナー、ティーローミンロー)(1210年 - 1234年)
 チャゾワー(1234年 - 1250年)
 オウサナー(1250年 - 1255年)
 ナラティーハパテ(1255年 - 1287年)
 チョウスワー(1287年 − 1299年)
 ソウニッ(1299年 − 1314年)

本稿の主な出典 Wikipedia


つづく