東南アジア最後の秘境 ミャンマー <参考>シュエズィーゴン・パゴダ Shwezigon Pagoda 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2016年8月4日 独立系メディア E−wave Tokyo 無断転載禁 |
(138) 最終日・バガンの朝 (139)シュエズィーゴン・パヤー (140) ニャンウー空港 (141) ヤンゴン国際空港 (142) バガンの漆器 (143)ポッパ山とナッ神信仰 (144) まとめ ホテルからニャンウー空港に行く途中、ヤンゴンの巨大パゴダ、 シュウェダゴン・パゴダ に類似したシュエズィーゴン・パヤーがあります。 出典;グーグルマップ 残念ながら今回は視察できませんでしたので、トリップアドバイザーの写真を掲載します。。 シュエズィーゴン・パヤー (トリップアドバイザー提供) シュエズィーゴン・パヤー (トリップアドバイザー提供) シュエズィーゴン・パヤー (トリップアドバイザー提供) シュエズィーゴン・パヤー (トリップアドバイザー提供) シュエズィーゴン・パヤー (トリップアドバイザー提供) シュエズィーゴン・パヤー (トリップアドバイザー提供) シュエズィーゴン・パヤー (トリップアドバイザー提供) シュエズィーゴン・パゴダは、ミャンマーの仏教施設。バガン(パガン)近郊のニャウンウーに位置しています。 バガンのアーナンダ寺院と並んで、パガン王朝を代表する宗教建築物として知られています。 シュエズィーゴン・パゴダは、11世紀にパガン王朝の創始者アノーヤターと、3代目の国王チャンシッターによって建立され、後に建立されたビルマ式パゴダ(仏塔)の原形となりました。「シュエ」はビルマ語で「金」、ズィーゴンは「砂の河岸」もしくはパーリ語で「祝福された土地」を意味しています。 歴史 シュエズィーゴン・パゴダは、ビルマ族の進出前からパガンに居住していたピュー族の文化とパガン王朝によって征服されたタトゥン王国(英語版)のモン族の文化が融合する初期の建築物に位置付けられています。 1059年にアノーヤターによって起工され、土台は完成したもののアノーヤターの死によってパゴダの建立は中止されます。 チャンシッターの治世に工事が再開され、パガン近郊のツゥン・ウィン山の石材を使用してパゴダが建てられ、1090年に完成します。チャンシッターによって奉納された2つのモン語の碑文は、碑文堂に保管されています。16世紀にタウングー王朝のバインナウンによって大規模な修復工事が実施され、2つの梵鐘が奉納されました。 18世紀末にコンバウン王朝のシンビューシンにより、2度目の大規模な修復工事が行われました。この時にシンビューシンによってパゴダの頂上に金色の傘蓋(ティ)が載せられましたが、1975年に起きた地震によってティは外れてしまい、境内東の建物に保管されるようになりました。 構造 シュエズィーゴン・パゴダは、アノーヤターが宮廷から放った像が最初にしゃがみ込んだ場所に建立されたことが伝えられています。三層構造の方形の土台の上に、高さ約40mの塔が建てられています。 施設内には女人禁制の場所があるため、女性は立ち入りが許可されている本尊の周囲の回廊から参拝を行います。 パゴダには金箔が張られ、塔の周囲には本生譚が描かれた陶器の板がはめ込まれています。伝説では、パゴダの中には釈迦の歯(仏歯)と骨(仏舎利)が奉納されているといいます。境内にはパガン王朝期に制作された木彫りの扉が保管されており、長い期間にわたって保存のために油が塗られてきました。 パゴダの四方には仏堂が建ち、その中にはそれぞれ一体ずつ立ち姿の仏像が置かれています。これらの仏像は「過去四仏」を表したものであり、東はコーナーガマナ仏(倶那含牟尼仏)、西は釈迦牟尼仏(釈迦如来)、南はカッサパ仏(迦葉仏)、北はカクサンダ仏(倶留孫仏)に相当します。仏像はインドのパーラ朝の技術を取り入れており、表情、衣服の表現にパーラ式仏像の影響が見られます。 東の祠堂には、37体のナッ(民間で信仰されている精霊)神像が並んでいます。かつてアノーヤターは民間で信仰されているナッを排除しようとしたが失敗し、従来民衆の間で信仰されていた36のナッの上に仏教の守護神タジャーミン(帝釈天)を置いてナッ信仰を認めたとされています。 そして37体の像をシュエズィーゴン・パゴダに建て、ナッ信仰が仏教を支えるものであることを強調しました。また、パゴダ南西の堂には子が上座、父がその下に置かれている、珍しい様式のナッ神像が納められています。 パゴダの裏には、パガン王族の墓が建てられています。タトゥン王国が滅亡した後、1057年にアノーヤターによってタトゥンの王マヌハがシュエズィーゴン・パゴダに仏塔奴隷として奉納されました。寺院の裏には、かつては仏塔奴隷の子孫の集落が存在していました。 つづく |