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  厳寒のロシア2大都市短訪

エカテリーナ宮殿
Дворец Екатерины

旧琥珀の間


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo

無断転載禁
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  ・エカテリーナ宮殿 琥珀の間
  
琥珀の間1   琥珀の間2  琥珀の間3  琥珀の間4  琥珀の間5


◆サンクトペテルブルグ市

 


◆ロシア皇帝の秘宝「琥珀の間」、ドイツ人男性が探索へ
   
     ロイター  Oddly Enough | 2015年 03月 4日 13:49 JST

[ベルリン 3日 ロイター]

 - ロシア皇帝エカテリーナ2世の愛した秘宝「琥珀の間」。第2次世界大戦時にナチスによって解体し持ち去られた後、現在まで70年間行方知れずとなっているが、この「もっとも貴重な、失われた遺物」の発掘にドイツ人男性が乗り出した。

 琥珀の羽目板で内装されたこの部屋は、プロイセン王フリードリヒ・ヴルヘルム1世が1716年、初代ロシア皇帝ピョートル大帝に贈ったものだ。サンクトペテルブルク近郊の宮殿に設置されていたが、1941年に侵攻したナチスがケーニヒスベルク(現在のロシア西部カリーニングラード)に移設。その後、所在が分からなくなっており、戦争中に破壊されたとも、ナチスが密売したとも言われていた。

 これまでにも一攫千金を狙うトレジャーハンターらが大金をはたいてドイツ全土を調査してきたが、残念ながら見つかっていない。

 この謎に挑戦することを決めたのが、年金生活をしているカール=ハインツ・クライネさん(68)。証拠を検証したのち、宝の部屋はナチス指導者エーリヒ・コッホが故郷である独西部ブッパータールの地下に埋めたと考えるに至ったという。

 クライネさんは「ブッパータールにはまだ調査されていない多くのトンネルや塹壕があるので、ここから調べたい」と意気込む一方、「人手も、発掘に使う器具も足りない。手伝ってくれた人には誰にでも、分け前を贈る」と協力を求めた。



 以下は、ナチスドイツに略奪される前の琥珀の間の写真です。


ツァルスコエ・セロー、エカテリーヌ宮殿。 アンドレ・アンドレイェヴィッチ・ゼエストのオートクローム(古い写真の復元)は1917年6月~8月に行われました。ツァルスコエ・セローの室内撮影は、GKルコムスキ(ツァルスコエ・セロ宮殿の受け入れと登録の不動産管理委員会委員長)に代わって行われたもので、 委員会は暫定政府によって設置された)。 当時の琥珀の間には、フリードリッヒ大王を記念する像のモデルが置かれていました。
Source:Wikimedia Commons
By Андрей Андреевич Зеест - http://visualhistory.livejournal.com/200025.html, Public Domain, Link



ツァルスコエ・セロー、エカテリーヌ宮殿。 アンドレ・アンドレイェヴィッチ・ゼエストのオートクローム(古い写真の復元)は1917年6月~8月に行われました。ツァルスコエ・セローの室内撮影は、GKルコムスキ(ツァルスコエ・セロ宮殿の受け入れと登録の不動産管理委員会委員長)に代わって行われたもので、 委員会は暫定政府によって設置された)。 当時の琥珀の間には、フリードリッヒ大王を記念する像のモデルが置かれていました。  
Source:Wikimedia Commons



プーシキン(ツァールスコエ・セロー)。エカテリーナ宮殿にあった琥珀の間。第二次世界大戦で破壊されました。 
Source:Wikimedia Commons
Branson DeCou - Courtesy Special Collections, UC Santa Cruz, (direct link), パブリック・ドメイン, リンクによる



プーシキン(ツァールスコエ・セロー)。エカテリーナ宮殿にあった琥珀の間。第二次世界大戦で破壊されました。  
Source:Wikimedia Commons


つづく