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◆<独ソ戦>
ペテルブルグ包囲 ペテルブルグ包囲とネコ モスクワの戦い 独ソ戦
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この間、ナチスは別途、モスクワそしてスターリングラードを攻撃しますが、これらの戦争が終わってもまだ、レニングラード包囲はつづきました。これらによるソ連側戦死者は300万人を超えています。
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当然、それ以外にもナチス・ドイツとソ連の戦いは、ポーランド、ハンバリー、ウクライナなどの南部戦線、方部戦線で激突し、合計2000万人超が亡くなったのです。
次はモスクワの戦いです。
◆モスクワの戦い 1941年10月2日~1942年1月7日
モスクワの戦いは、第二次世界大戦中の1941年10月2日より始まりました、ドイツ軍によるモスクワへの攻略戦「タイフーン作戦」によって行われた戦闘です。タイフーン作戦は、バルバロッサ作戦の第2段階として敢行されました。
ドイツ軍の進撃。1941年12月5日まで
Sourde:Wikimedia Commons
1941年12月 モスクワから前線に移動中の新規部隊。 Sourde:Wikimedia Commons RIA Novosti archive, image #429 / Oleg Ignatovich / CC-BY-SA 3.0, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
ドイツ軍の進撃
1941年7月8日ヒトラーと国防軍首脳部は中央軍集団の攻撃目標を決める会議を開しました。バルバロッサ作戦ではスモレンスク以西で赤軍野戦軍を殲滅後、中央軍集団はレニングラードとウクライナの奪取を支援することになっていました。
しかし中央軍集団はスモレンスク一帯で足止めされ短期間での赤軍野戦軍の包囲殲滅には困難が予想されました。そこでヒトラーはレニングラードとウクライナを第1目標とする当初の計画を修正し、モスクワの攻略を優先するため装甲部隊による両翼包囲で赤軍野戦軍を捕捉する計画を提案したのです。
参謀総長フランツ・ハルダ―とハインツ・グデーリアンやヘルマン・ホトなどの中央軍集団前線指揮官達はヒトラーの提案に賛同しましたが、赤軍がウクライナに戦力を集中し南西総軍を編成するとヒトラーはウクライナの赤軍大兵力を殲滅するため再び方針を転換、中央軍集団の進撃を停止させ装甲部隊をウクライナに南下させる当初の計画を主張しました。
キエフ方面での勝利が確定するとヒトラーは9月6日にモスクワへの攻勢を開始する新たな総統訓令を全軍に下達しました。赤軍大兵力の包囲殲滅によるソ連打倒が失敗に終ったため、ヒトラーはグデーリアンら前線指揮官が主張したモスクワ攻略によるソ連体制の打倒に望みをたくしたのです。
9月30日、中央軍集団はモスクワ攻略をめざしタイフーン作戦を開始しました。ドイツ軍は装甲部隊をより効率的に運用するため10月5日~8日にかけて各装甲集団を独自の補給段列を持つ装甲軍へと改編しました。
10月14日には、第3装甲集団はヴォルガ川を渡河し、モスクワとレニングラードを結ぶ鉄道を断ったほか、10月末にはグデーリアンの部隊がトゥーラ近郊まで到達することに成功しました。
ソ連軍の反撃
モスクワ陥落の危機にたいし、ヨシフ・スターリンは10月10日にレニングラード攻防戦を一段落させたゲオルギー・ジューコフに首都防衛を命じ西部正面軍司令官に就任させました。
同時にソ連国防委員会は、政府機関や工場等をウラル方面へと疎開させつつもモスクワ市民を中心にドイツ軍に立ち向かわせ、冬将軍が来るまでできるだけ長く足止めをするという作戦を実行します。これには周辺士官学校生やコムソモール員からなる共産主義者義勇団等を大量動員、不足していた防衛前線へ人員補充の為に送られました。
その中には後にパルチザン英雄として称賛される若きコムソモール、ゾーヤ・コスモデミヤンスカヤも含まれている。彼女はドイツ軍駐屯地への放火に依りドイツ軍に処刑されたが、これはソ連軍及びコムソモールの士気を高める材料には十分となったのです。
10月になり、ついに天候が悪化しはじめ雨が多くなると、舗装されていないソ連の道は泥沼と化しました。これがドイツ軍にとって致命的な障害となり、装甲部隊の前進も物資の補給もままならなくなりました。
一方、ソ連軍はこうした自然条件に慣れていたのと、ドイツ軍に比べ長距離の移動を必要としない防御戦であるためにさほど問題はなかったのです。この10月中のドイツ軍の前進の鈍化が、モスクワの防衛体制を整える時間的猶予を与えました。また、戦意高揚の為、この防衛戦の最中であっても11月7日の革命記念日には、ドイツ軍を尻目に恒例のスターリン演説と軍事パレードを敢行しました。
11月になると天候は回復し、気温が低下。霜が降りて路面状態は良好となり、ドイツ軍の進撃スピードは回復します。しかし、ドイツ軍は冬までに作戦を終了させる予定だったため、厳冬に対応した衣類や装備をしておらず、何よりも伸びきった補給線が限界に到達しようとしていました。また、ソ連軍はドイツ軍に物資を残さない徹底的な「焦土作戦」を実施し、補給の現地徴収もほぼ不可能となり、ドイツ軍はいよいよ窮乏に瀕したのです。
11月24日に第3装甲軍がクリンを攻略しモスクワ運河に橋頭保を構築、11月26日には第4装甲軍が鉄道の中継点であるイストラを攻略し11月30日にモスクワから8kmのヒムキに到達し、南部戦線では第2装甲軍が工業都市ツーラを包囲しミハイロフを攻略しました。しかし11月末には、各所でドイツ軍の攻勢が頓挫。南部からモスクワを目指した第2装甲集団はトゥーラを落とせないまま、これを迂回して前進を継続していましたが、モスクワ南方を流れるオカ川の線で前進を阻止されました。
北方から進撃した第3装甲集団は北部の要衝クリンを制圧し前進しましたが、北部からのモスクワ突入はならなかったのです。西方正面では第4装甲集団がクレムリンから25kmの地点のモスクワ郊外にまで達し、前衛部隊はクレムリンの尖塔を眺める位置に(前線の工兵部隊はモスクワまで8kmの地点まで前進したとも)ありました。
例年よりも早く冬が到来しドイツ軍の進撃は完全に停止します。気温が零下20度以下にまで下がり、ドイツ軍の戦闘車両や火器は寒冷のため使用不能に陥りました。ドイツ軍には兵士の防寒装備も冬季用のオイルも不足しており、車両や航空機も満足に動かせない状態となりました。医療品の不足から凍傷にかかる兵士が続出しました。
特に軍靴は長距離進軍に耐えるため底に鋲が打ってあり、足に冷気を伝え凍傷の原因となったのです。対してソ連軍は靴底に鋲を打たないブーツを使い、兵士には一回り大きいサイズのブーツを支給し、隙間に新聞紙や藁を敷き詰める等、防寒装備は充実していました。
ドイツ軍はソ連のモスクワ防衛の要衝・イストラを占領しましたが、翌日からソ連空軍の猛爆撃が始まり、制空権はソ連側にありました。10月25日のモスクワ空襲を最後にドイツ空軍は出撃不能となったのです。ドイツ軍の攻勢が頓挫しつつあった11月30日、スターリンはジューコフにモスクワ正面での大反攻を命じました。ジューコフは充分な補給と増援を得た西部・カリーニン・南西の3個正面軍、13個軍を投入し12月5日に中央軍集団への攻勢を開始しました。
疲弊していた中央軍集団は攻勢に耐えられずモスクワ正面から押し返され西方に退却しました。この攻勢で南西正面軍はエレツ西方で第34軍団の2個師団を包囲殲滅する目覚ましい戦果をあげました。ヒトラーの死守命令によってドイツ軍はかろうじて踏みとどまり戦線を立て直しましたがルジェフとデミャンスクに突出部が形成された。12月5日、モスクワ攻略の続行不可能が明白となり、ブラウヒッチュ、ボック、レープ、ルントシュテット各元帥、ホト、ヘープナー、グデーリアン各大将と35名の将軍更迭を以て作戦は失敗に終わったのです。
出典:Wikipedia |
つづく |