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   美の極致、厳寒のロシア2大都市短訪

2大都市独ソ戦

歴史上最大の戦死者を出したロシア

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo
 
無断転載禁
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<独ソ戦>
 ペテルブルグ包囲  ペテルブルグ包囲とネコ   モスクワの戦い  独ソ戦

   
 ロシアの国章    サンクトペテルブルグ紋章    モスクワ紋章


 ナチスドイツとソ連の戦いは、スターリングラード攻防戦となります。

◆スターリングラード攻防戦 (1942年6月28日 - 1943年2月2日)

 スターリングラード攻防戦は、第二次世界大戦の独ソ戦において、ソビエト連邦領内のヴォルガ川西岸に広がる工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を巡り繰り広げられたドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリーおよびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍の戦いです。

 スターリングラードは元来ドイツ軍のブラウ作戦における副次的目標の一つに過ぎませんでしたが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンの名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展、やがては日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大しました。

 緒戦は枢軸軍側の優位に進み、市街地の90%以上を占領したものの、最終的にはソ連軍側の反攻が圧倒し、ついには包囲されるに至ったドイツ第6軍を主軸とする枢軸合同軍が降伏しました。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなりました。

 死傷者数はソンムの戦いなどの第一次世界大戦の激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられています。

 街は瓦礫の山と化し、開戦前に60万を数えた住民が終結時点でおよそ9800名にまで激減。第二次世界大戦最大の激戦、また13世紀の「バグダッド包囲殲滅戦」(モンゴル帝国)などと並ぶ人類全史上でも屈指の凄惨な軍事戦であったと目されています。

 この後の詳細は、スターリングラード攻防戦(Wikipedia)をご覧ください。



ドイツ軍の進撃。1942年5月から1942年11月にかけての前線の推移
Sourde:Wikimedia Commons


独ソ戦(第二次世界大戦)
Sourde:Wikimedia Commons
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出典:Wikipedia

 とりわけ、1000万人以上の死者を出したとされるウクライナ戦線は熾烈を極めています。そんなこともあり、米国によるウクライナ政府転覆へのロシアの怒りはひとしおであり、85%超がロシア語圏のクリミア独立ロシア編入に見せたプーチンのあの信念には多くの死者を出したウクライナ戦線でナチスからウクライナを守ったという強い思いがあったのだと思います。


独ソ戦(大祖国戦)1941年6月22日から1945年5月8日

 第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指します。大戦の当初はポーランドを共に占領していたドイツとソビエト連邦でしたが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し、戦争状態となりました。

 当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争と呼びました。一方、ドイツ側では主に東部戦線と表現しています。ヒトラーは、ソ連との戦争を「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、西部戦線とは別の戦争であるとしています。

 1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃しました。ヨーロッパにおけるドイツ占領地から反共主義者の志願者や武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わりました

 開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方や過酷な共産党の政策からウクライナの住民は、反共主義者はロシア国民解放軍やロシア解放軍として共産主義者と戦いました。

 しかし、スラブ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きを利用しようとせず、親衛隊や東部占領地域省はドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、一部実行されました。

 独ソ戦のソ連側の死者はとりわけ大規模です。なお、独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1128万人、ドイツ兵が500万人とされています。

 民間人の犠牲者をいれるとソ連は2000~3000万人が死亡、ドイツは約600~1000万人と推計されています。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いと言われています。

 両国の捕虜・民間人に対する扱いも苛酷を極め、占領地の住民や捕虜は強制労働に従事させられるなど極めて厳しい扱いを受けました。ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡しています。またドイツ兵捕虜300万人の多くはそのままソ連によって強制労働に従事させられ、およそ100万人が死亡しています。

 開戦から1943年7月のクルスクの戦いまでは主にドイツ軍の攻勢とソビエト軍の防御という展開でしたが、クルスクの戦いの後は攻守が逆転、東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの占領地域となり、1945年5月8日、ドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がベルリンで無条件降伏文書の批准手続きを行うことで戦争は終結しました。


1941年6月から12月にかけての戦線
Sourde:Wikimedia Commons



1942年5月から1942年11月にかけての戦線
Sourde:Wikimedia Commons



上段左:ベルリン上空のIL-2シュトゥルモヴィーク
上段右:クルスクの戦いでのティーガーI
中段左:スターリングラード攻防戦時のソ連軍
中段右:1943-1944年時のJu 87 シュトゥーカ
下段左:降伏文書に署名するカイテル元帥
下段右:ユダヤ人女性を銃殺する特別行動部隊
Sourde:Wikimedia Commons
By Paul Siebert - Own work, CC BY-SA 3.0 de, Link


出典:Wikipedia
 もし、第二次世界大戦でこれら2000万人以上の犠牲者を出しながらあのナチス・ドイツと戦ったソ連のがんばりがなければ、英米など他の連合運がどれだけがんばったとしても、到底、ドイツは負けず、今の欧州はなかったのです。
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 それを思うと、もっともっとロシアの実績について私達日本人は多くを学ばなければならないと思います。もちろん、帝政ロシア、ソ連、ロシアにも人権問題などで多くの問題があったことは事実でしょうが。
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 サンクトペテルブルグのエルミタージュ宮殿やプーシキンのエカテリーナ宮殿で話を聞くと、何とスウェーデンやドイツは、この戦争中、多くの貴重な財宝を略奪したとあります。結局、それらの多くは返却されず、ソ連やロシア市民らの寄付などで復元したたそうです。
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 たとえば、エルミタージュで唯一写真近視の「琥珀の間」を修復するのに実に五トンもの琥珀原石が必要になったそうです。





,第二次世界大戦中のナチス・ドイツによる幾度にも及ぶソ連への集中攻撃、猛攻の理由には、ポーランドなどのユダヤ人とは別に、ロマ同様、ヒットラーがスラブ民族を劣等民族と見立てたことがあります。
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 事実、私たちのポーランド、南ロシアなどへの現地視察結果からも、南ロシアのウクライナ人、ロシア人が相当数、強制収容所に送られ、その多くが殺害されていました。事実、ウクライナや南ロシアから約37万人が強制されたというデータもあります。これは、ポーランドとリトアニアの資料館で発見しています。
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 安倍晋三氏のこの間の言動を見ていると、明らかに米英などに諂いながらも、中国、韓国など隣国の人々に対して、明らかな差別意識を持っていることが分かります。おそらく岸信介などからの影響も大きいと思います。
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 最も近くの隣人を蔑視し、脱亜入米しか眼中にないこのような人々のために、日本全全体が、他の圧倒的多くの諸外国の首脳や見識ある小民からリスぺクトされない現実はどうしようもないことです。 

ナチスドイツのバルバロッサ作戦


Sourde:Wikimedia Commons
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 バルバロッサ作戦(ドイツ語:Unternehmenバルバロッサは1941年6月22日に開始、第二次世界大戦中にソ連のナチスドイツの侵略のコードネームでした。枢軸国の450万人以上の部隊が2900キロの前面(1800マイル)に沿ってソ連に侵攻した。

 作戦は、神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒバルバロッサ、12世紀における第3回十字軍の指導者の名にちなんで名付けられました。バルバロッサ作戦の計画は、1940年12月18日に開始しました。秘密の準備と軍事作戦自体は1941年の冬を通じて、1940年の春から、ほぼ一年続きました。


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