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  厳寒のロシア2大都市短訪

アレクサンダー宮殿

歴史・外観

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo

無断転載禁
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 アレクサンダー宮殿
  
概要・歴史    外観・景観    居室・内装     調度 


◆サンクトペテルブルグ市


サンクトペテルブルグ市の紋章
   
 ツァールスコエ・セロー(Tsarskoye Selo)地区には、ロマノフ王朝の様々な歴史的な建築物や構造物があります。その最大のものは、エカテリーナ宮殿ですが、それに加え、アレクサンドロフスキー宮殿があります。

◆アレクサンダー宮殿  概要 Alexander Palace

 アレクサンダー宮殿(Alexander  Palace)、正式には、アレクサンドロフスキー宮殿( Александровский дворец)は、サンクトペテルブルク近郊のツァールスコエ・セローにあり、帝政末期に皇帝ニコライ2世一家が皇宮として好んで使用していた宮殿で、現在でもほぼ往時に類する建築物が残っています。


ツァールスコエ・セロ-にあるアレクサンダー宮殿
tSource:Pinterest   The world’s catalog of ideas


・歴史

アレクサンドル1世時代

 アレクサンドロフスキー宮殿は、ツァールスコエ・セローにおけるロマノフ家の静養用の宮殿として建設されました。宮殿を造営したのはエカテリーナ2世で、皇孫に当たるアレクサンドル1世とその皇妃エリザヴェータ・アレクセーエヴナの結婚に際し、建設を依頼しています。

 その典雅な新古典主義の殿堂は、ジャコモ・クァレンギによって設計され、1792年から1796年まで、4年の歳月をかけて造営されました。


(彫像付き)アレクサンダー宮殿(サンクトペテルブルクとレニングラード地域、
プーシキン、宮殿通り2、公園の景観の一部)
Source:Wikimedia Commons
Flying Russian - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 宮殿造営に当たっては、基礎工事の際に地下水脈にぶつかり、これを地階に作った半円形ホールに地下河川として残しました。アレクサンドル1世は、エカテリーナ2世、次いでパーヴェル1世の治世中、夏の宮殿として使用しましたが、即位後はエカテリーナ宮殿を使用しています。

歴代当主(歴代ロシア皇帝, インペラートル) 

歴代 皇帝 在位 備考
第10代 アレクサンドル1世 1801年-1825年 パーヴェル1世の子。
第11代 ニコライ1世 1825年-1855年 パーヴェル1世の子、アレクサンドル1世の弟。
第12代 アレクサンドル2世 1855年-1881年 ニコライ1世の子。「人民の意志」派の爆弾テロ(ロシア語版)により暗殺される。
第13代 アレクサンドル3世 1881年-1894年 アレクサンドル2世の子。
第14代 ニコライ2世 1894年-1917年 アレクサンドル3世の子。二月革命により退位。1918年に家族とともに殺害される(ロマノフ家の銃殺(英語版))。
出典:Wikipediaなどから青山が作成

ニコライ1世時代

 アレクサンドル1世はエカテリーナ宮殿に移った後、アレクサンドロフスキー宮殿を弟のニコライ・パヴロヴィチ大公(後の皇帝ニコライ1世)一家に夏の宮殿として下賜しました。ニコライ1世は即位後、1830年から1850年にかけて大規模な改修を行いました。

 改修に当たっては、D.セルフォリーリョ、A.トーン、D.エフィーモフ、アンドレイ・シタケンシネイデル(シュタッケンシュナイダー)らの建築家が起用されました。ニコライ1世の治世における公式及び私室の様子は、1840年から1860年代にE.ハウ、I.プレマッツィ、I.ヴォリスキーの手になる水彩画の数々によってうかがい知る事ができます。

 この時期に造営された部屋の中で最も著名なものは、ニコライ1世の皇子女のために作られた「山のホール」です。ニコライ1世と家族は、短い夏をこの宮殿で過ごしました。

 1842年には、皇帝夫妻は銀婚式を祝いました。その一方で、2年後の1844年には、ヘッセン=カッセル方伯子フリードリヒ・ヴィルヘルムの妃となったアレクサンドラ・ニコラエヴナがこの宮殿で死去し、1860年10月19日、アレクサンドラ・フョードロヴナも、宮殿で崩御しています。

 このほか、後の皇帝アレクサンドル3世は、宮殿右翼棟にアパルトマンを所有していました。

ニコライ2世時代

 歴代皇帝がアレクサンドロフスキー宮殿を夏の離宮として使用していましたが、その中でも最後の皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラはとりわけツァールスコエ・セローとこの宮殿を愛していました。

 皇帝夫妻にとっては血の日曜日事件以後、頻発する首都の不愉快な騒擾を避けるのにアレクサンドロフスキー宮殿は静かで最適であったわけです。皇帝一家はツァールスコエ・セローのこの宮殿に移り住み、永住を希望しました。皇帝一家の生活は田舎の貴紳のそれであり、当時、流行したユーゲントシュティールや、アールヌーヴォーの様式が取り入れられました。


ロシアの最後の皇帝、ニコライ二世、妻、子供たち
Last Russian Emperor Nicholas II and his Children by Age.
Source:Wikimedia Commons
By Unknown author - Flickr: Nicholas II the Bloody and his Children. Uploaded 10 February 2011, CC BY-SA 2.0, Link



出典:ロシアNOW カラー写真で見るロマノフ家・ロシア人アーティストのオリガ・シルニナ (通称「Klimbim」) は、ロマノフ家のアーカイブ写真に色づけしています。
Original Source: Wikimedia Commons
By Boasson and Eggler St. Petersburg Nevsky 24. - This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs divisionunder the digital ID cph.3c13324.This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., Public Domain, Link

Dolor Version: Russia Beyond


つづく