厳寒のロシア2大都市短訪 アレクサンダー宮殿 歴史・外観 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2017年5月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
ロシア短訪・総目次に戻る ・アレクサンダー宮殿 概要・歴史 外観・景観 居室・内装 調度 ◆サンクトペテルブルグ市 サンクトペテルブルグ市の紋章 以下は往事のアレクサンダー宮殿と庭園の景観です。 往事のアレクサンダー宮殿と庭園の景観 Source:Wikimedia Commons By Branson DeCou - Courtesy Special Collections, UC Santa Cruz, Public Domain, Link ロシア革命後 ロシア革命が起こると、アレクサンドロフスキー宮殿は臨時政府に接収されました。アレクサンドル・ケレンスキーによって、1917年8月1日、皇帝一家はシベリア鉄道によってトボリスクに移送され、幾多の変遷を経て、ボリシェヴィキによってエカテリンブルクで殺害されました。 以後、宮殿はソビエト政権によって博物館となります。 第二次世界大戦直前、最も貴重な家具、インテリア類は避難しています。残りのコレクションの避難が終了しないうちに、独ソ戦が開始され、宮殿はナチス・ドイツの占領下に陥ります。 彫像付き)アレクサンダー宮殿(サンクトペテルブルクとレニングラード地域、プーシキン、宮殿通り2、公園の景観の一部) Source:Wikimedia Commons 彫像付き)アレクサンダー宮殿(サンクトペテルブルクとレニングラード地域、プーシキン、宮殿通り2、公園の景観の一部) Source:Wikimedia Commons 彫像付き)アレクサンダー宮殿(サンクトペテルブルクとレニングラード地域、プーシキン、宮殿通り2、公園の景観の一部) Source:Wikimedia Commons 戦争中、宮殿は親衛隊本部として使用されて、ドイツ軍の作戦指揮が発せられした。戦争によって、宮殿が誇る貴重なコレクションは半壊を余儀なくされました。レニングラード攻防戦後、宮殿はソ連軍に奪還されました。宮殿は博物館へ復元を目ざしましたが、一時期、ソ連海軍の管轄下で孤児院となり、ニコライ2世の皇子女の居室がそれに使用されました。 現在の宮殿 ソ連崩壊後、エカテリーナ宮殿や同じくサンクトペテルブルク郊外のガッチナやパヴロフスクの宮殿とともに博物館として整備されています。1997年には宮殿左翼棟で常設展が開催されるようになっています。現在ではニコライ2世に関する新しい研究やアレクサンドラ皇后のコーナーが設置されています。 以下は現在のアレクサンダー宮殿の周辺の往時の面影を残す光景です。閑静な別荘地となっています。 彫像付き)アレクサンダー宮殿(サンクトペテルブルクとレニングラード地域、プーシキン、宮殿通り2、 公園の景観の一部) Source:Wikimedia Commons アレクサンドロフスキー宮殿 Source: Wikimedia Commons Alex 'Florstein' Fedorov, CC 表示-継承 4.0, リンクによる 以下は、ツァールスコエ・セローのアレクサンダー宮殿の外観です。 つづく |