厳寒のロシア2大都市短訪 大黒屋 光太夫-1 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2017年5月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
ロシア短訪・総目次に戻る ・大黒屋光太夫 大黒屋光太夫1 大黒屋光太夫2 ◆サンクトペテルブルグ市 世界的に見て稀有で秀逸なエカテリーナ宮殿の「琥珀の間」ですが、実は日本人でこの「琥珀の間」でエカテリーナ二世に謁見を許された人物がいます。それが大黒屋光太夫です。 本稿は現地調査をもとに 、Wikipeda、Wikimedelia 、東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料などをもとに執筆ました。 また、本稿にあるロシアのハバロフスクからサンクトペテルブルグまでの徒歩、飛行機、鉄道、自動車による経路・時間は、グーグルマップの探索システムを用い、筆者が行っています。 ◆大黒屋 光太夫とは 大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭です。 天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着しました。大黒屋 光太夫はロシア帝国の首都、帝都サンクトペテルブルクで女帝エカテリーナ2世に謁見して帰国を願い出ることで、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国しました。 幕府の老中・松平定信は大黒屋光太夫を利用しロシアとの交渉を目論みましたがうまくゆかず失脚します。その後、大黒屋光太夫は江戸で屋敷を与えられ、当時の数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与しました。甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などでたびたび取りあげられています。これについては巻末の資料を参照ください。 大黒屋光太夫と磯吉 出典:Wikimedia Commons Anonymous Japanese painting 1792 - [1], CC 表示-継承 3.0, リンクによる ◆生涯 出生から船頭時代 大黒屋光太夫は伊勢亀山藩領南若松村(三重県鈴鹿市南若松)の亀屋四郎治家に生まれます。四郎治家は船宿を営み、光太夫(幼名は兵蔵)は次男で兄の次兵衛がいます。母は伊勢藤堂藩領玉垣村(鈴鹿市玉垣)で酒造業・木綿商などを営む清五郎家の娘妙伯(法名)です。 父の四郎治は兵蔵の幼少期に死去し、四郎治家は姉の国に婿養子を迎え家督を相続させます。兄の次兵衛は江戸本船町の米問屋白子屋清右衛門(一味諫右衛門)家に奉公し、兵助も長じると母方の清五郎家の江戸出店で奉公します。 1778年(安永7年)に兵蔵は亀屋分家の四郎兵衛家当主の死去に際して養子に迎えられ、伊勢へ戻ると亀屋四郎兵衛と改めます。伊勢では次姉の嫁ぎ先である白子の廻船問屋一味諫右衛門の沖船頭小平次(沖船頭大黒屋彦太夫)から廻船賄職として雇われ、船頭となります。 1780年(安永9年)には沖船頭に取り立てられ、名を大黒屋光太夫に改めます。 漂流とロシアへの渡航 1782年(天明2年)12月、光太夫は船員15名と紀州藩から立会いとして派遣された農民1名とともに神昌丸で紀州藩の囲米を積み、伊勢国白子の浦から江戸へ向かい出航します。しかし、駿河沖付近で暴風にあい漂流することになります。 7か月あまりの漂流ののち、一行は日付変更線を超えてアリューシャン列島のひとつであるアムチトカ島へ漂着します。先住民のアレウト人や、毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇しました。彼らとともに暮らす中で光太夫らはロシア語を習得します。 アムチトカ島の風景。樹木の育たない寒冷地の景色が広がる。 出典:Wikimedia Commons Schulmeister - U.S. Fish and Wildlife Service - This image originates from the National Digital Library of the United States Fish and Wildlife Serviceat this pageこれはライセンスタグではありません!別途、通常のライセンスタグが必要です。詳しくはライセンシングをご覧ください。See Category:Images from the United States Fish and Wildlife Service.en.wikipedia からコモンズに移動されました。(Original text: http://www.fws.gov/digitalmedia/FullRes/natdiglib/881FA4D0-1143-3066-4015E572CD886248.jpg), パブリック・ドメイン, リンクによる 4年後(1787年)、ありあわせの材料で造った船によりロシア人らとともに島を脱出します。もともとはロシア人に保護されるような立場だったのですが、そのロシア人たちを帰還させるための船が到着目前で難破し、漂流民が逆に増えました。そのため、光太夫らが逆に指導的立場に立って、難破した船の材料などを活用し、脱出用の船を作ったのです。 その後カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年(寛政元年)イルクーツクに至ります。道中、カムチャツカでジャン・レセップス (Barthelemy de Lesseps) (フランス人探検家。スエズ運河を開削したフェルディナン・ド・レセップスの叔父)に会い、後にレセップスが著した旅行記には光太夫についての記述があります。 イルクーツクでは日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと出会います。キリルを始めとする協力者に恵まれ、1791年(寛政3年)、キリルに随行する形でサンクトペテルブルクに向かい、キリルらの尽力により、ツァールスコエ・セローにてエカてリーナ2世に謁見し、帰国を許されることになります。 ツァールスコエ・セローのエカテリーナ宮殿。光太夫はここでエカテリーナ2世 に謁見し、帰国の許しを乞うた。 出典:Wikimedia Commons Stan Shebs, CC 表示-継承 3.0, リンクによる 以下は大黒屋光太夫一行の足跡ですが、よく見ると、ヤクーツク、イルクーツク、トムスク、トポリスク、エカテリンブルグ、カザン、モスクワ、サンクトペテルブルグと、ロシアの主要都市をほぼ網羅していることが分かります。それにしても徒歩での8500km近くの距離は想像を絶します。また冬季はマイナス20-30℃となる地域もあり、さぞかしすさまじいものであったと思います。 大黒屋 光太夫位、甲一行、漂白の足跡 出典:東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 以下は、大黒屋光太夫が描いたとされる日本の地図です。裏面には墨書で『天明九酋歳七月末日大日本国伊勢国白字大黒屋幸太夫』とあります(1789年)。 ロシア陸軍の医師をしていたゲオルク・トーマス・フォン・アッシュ (de:Georg Thomas von Asch) がゲッティンゲン大学に送ったカードには、ドイツ語で「1793年イルクーツクで受け取る」と記してありました。 出典:ゲッティンゲン国立大学図書館 (Gottingen State and University Library) アッシュ・コレクション(Sammlung Asch)所蔵 出典:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンク 日本への帰国と日露交渉 日本に対して漂流民を返還する目的で遣日使節アダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われ、漂流から約10年を経て磯吉、小市と3人で根室へ上陸、帰国を果たしましたが、小市はこの地で死亡、残る2人が江戸へ送られました。 黒田光太夫を含め神昌丸で出航した17名のうち、1名はアムチトカ島漂着前に船内で死亡、11名はアムチトカ島やロシア国内で死亡、新蔵と庄蔵の2名が正教に改宗したためイルクーツクに残留、帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3名だけでした。 出典:東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 出典:東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 帰国後は、11代将軍徳川家斉の前で聞き取りを受け、その記録は桂川甫周が『漂民御覧之記』としてまとめ、多くの写本が残されました。また甫周は、光太夫の口述と『ゼオガラヒ』という地理学書をもとにして『北槎聞略』を編纂しました。海外情勢を知る光太夫の豊富な見聞は、蘭学発展に寄与することになったのです。 光太夫は、ロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も樺太や千島列島に関して防衛意識を強めていくようになりました。 その後、光太夫と磯吉は江戸・小石川の薬草園に居宅をもらって生涯を暮らしました。ここで光太夫は新たに妻も迎えています。故郷から光太夫ら一行の親族も訪ねて来ており、昭和61年(1986年)に発見された古文書によって故郷の伊勢へも一度帰国を許されていることも確認されています。 寛政7年(1795年)には大槻玄沢が実施したオランダ正月を祝う会に招待されており、桂川甫周を始めとして多くの知識人たちとも交際を持っています。 光太夫の生涯を描いた小説『おろしや国酔夢譚』(井上靖、1968年)では帰国後の光太夫と磯吉は自宅に軟禁され、不自由な生活を送っていたように描かれていますが、実際には以上のように比較的自由な生活を送っており、決して罪人のように扱われていたわけではなかったようです。それら資料の発見以降に発表された小説『大黒屋光太夫』(吉村昭、2003年)では事実を反映した結末となっています。 なお、三重県鈴鹿市若松東には光太夫の行方不明から2年後に死亡したものと思い込んだ荷主が建立した砂岩の供養碑があり、1986年に鈴鹿市の文化財に指定されています。 ◆大黒屋光太夫記念館 2005年(平成17年)11月13日、光太夫の出身地である三重県鈴鹿市の生家跡近くに大黒屋光太夫記念館が開設されました。設置者は鈴鹿市(文化振興部)です。 光太夫の肖像や直筆の墨書、光太夫がペテルブルクで書いた手紙の複製、漂流記、ロシアから持ち帰った器物などが展示されています。また、年3回の企画展(春:帰郷文書公開、夏:光太夫の生涯、冬:光太夫のロシア文字墨書公開)、特別展を随時行っています。 記念館の開館以前は、道を挟んで隣接する鈴鹿市立若松小学校内に「大黒屋光太夫資料室」が設けられていました。 大黒屋光太夫記念館のエントランス。右に光太夫像が建っています。 出典:Wikimedia Commons Si-take. - Photo by Si-take., GFDL, リンクによる ◆大黒屋光太夫に関わる史料 北槎聞略 - 桂川甫周 1794年 報告用に編纂された将軍家斉への献上本 全10巻と絵図・地図 北槎異聞 - 篠本久次郎 幕府正規の取調べ記録 全4巻 魯西亜国漂舶聞書(おろしやこくひょうはくききがき) 漂民御覧之記 - 桂川甫周 光太夫の将軍上覧の様子をまとめた 我衣(わがころも) - 加藤曳尾庵が、65歳の光太夫を描いている。国立国会図書館所蔵。 環海異聞 - 若宮丸漂民の聞き取りによる編纂を大槻玄沢に乞われ手伝った。その際、 庄蔵と新蔵の消息、キリル・ラックスマンの死を知った。 寛政五年神昌丸二漂民両目付吟味録 光太夫談話 一席夜話 日本来航日誌 - アダム・ラックスマンの日誌。『大黒屋光太夫史料集』に日本語の全訳がある。 芝蘭堂新元会図 - 市川岳山画、早稲田大学図書館・洋学文庫所蔵。芝蘭堂のオランダ 正月の会で、光太夫と思われる人物がキリル文字で1月と筆書きしている。 レセップスの旅行日記 - フランスのバルデミー・レセップス(ジャン・レセップス (Barthelemy de Lesseps) )がカムチャツカで光太夫と交流があり、その様子を 記している。バルデミーはスエズ運河建設を指揮したフェルディナン・ド・レセップスの叔父。 光大夫談筆記(こうだゆうだんぴつき) - 国学者伴信友の聞き取り記録。文政年間唯一の 史料1826年。 極珍書 - 磯吉の帰郷時、地元の心海寺住職実静が磯吉から聞き取りして記録したもの。 大黒屋光太夫らの帰郷文書 - 1986年に鈴鹿市で発見された光太夫の帰郷を示す古文書。 大黒屋光太夫を描いた作品[編集] 小説 井上靖『おろしや国酔夢譚』 本小説はBrigitte Koyama-Richardにより仏文に翻訳された。仏文による表題はReves de Russie(ロシアの夢)である。 吉村昭『大黒屋光太夫』 映画 『おろしや国酔夢譚』(1992年、大映 監督:佐藤純彌 主演:緒形拳) ルポルタージュ 椎名誠『シベリア追跡』 漫画 みなもと太郎『風雲児たち』 森川久美『ソフィアの歌』(原作:五木寛之) さいとうたかを『大黒屋光太夫 江戸の世にロシアを見た男』(1992年 徳間書店) ISBN 4-19-444858-8 『NHKその時歴史が動いた コミック版 冒険・挑戦編』「ロシア女帝が涙した帰国願い 日露交渉の扉を いた大黒屋光太夫」 作画は大和虹一 (ホーム社) つづく |