厳寒のロシア2大都市短訪 大黒屋 光太夫-2 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2017年5月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
ロシア短訪・総目次に戻る ・大黒屋光太夫 大黒屋光太夫1 大黒屋光太夫2 ◆サンクトペテルブルグ市 ◆たどり着いたアムチトカ島とは 大黒屋 光太夫らが漂流後たどり着いたアムチトカ島は、以下のグーグルマップの★のあたりにある島と思われます。この辺りには島の名の頭にアがついたものが多くあります。 出典:グーグルマップ 下はアリューシャン列島(Aleutian Islands;)は、北太平洋に弧状に連なり、アメリカ合衆国のアラスカ半島からロシアのカムチャツカ半島にかけて約1,930キロメートルにわたって延びる列島の一部です。アムチトカ島は、14番の東西に長い島です。 元来、これらの島々はアレウト族の居住地でした。漂流体験者・大黒屋光太夫の体験を綴った『北槎聞略』によれば、18世紀末当時にはアザラシなどの毛皮を求めるロシア商人が来島し、交易を目的として常駐していたそうです(ロシアによるアメリカ大陸の植民地化)。 しかし、1867年3月、アラスカがロシアからアメリカ合衆国に売られて以来、米国領となり、水爆実験場などとなっています。 アムチトカ島があるアリューシャン列島のラット諸島 : 1-5 ニア諸島 1 - アッツ島 2 - アガッツ島 3-5 - セミチ諸島 3 - アライド島 4 - ニズキ島 5 - シェムリャ島 6 - ブルダー島 7-15 ラット諸島 7 - キスカ島 8 - 小キスカ島 9 - セグラ島 10 - クヴォストフ島 11 - ダヴィドフ島 12 - 小スィッキン島 13 - ラット島 14 - アムチトカ島 15 - セミソポクノイ島 出典:Wikipedia ◆経路・時間シミュレーション 現在のハバロフスクからペテルブルグまで歩いてみると? アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島からロシア本土への航海は別として、現在のシベリアのハバロフスクからサンクトペテルブルグを徒歩で向かう場合、どのくらいの時間がかかるかについて、グーグルマップの経路探索機能を用いて計算してみました。 その結果が以下の通りです。8554km、1729時間となっています。1日8時間歩いたとして、約216日かかります。また分析結果をみると経路は、往時、大黒屋光太夫がたどった経路とはかなり異なっていることが分かります。これは、現在は幹線道路が通っており往時よりもかなり直線的にサンクトペテルブルグに向かうことができていることを意味するものと思われます。 ちなみに飛行機では約10時間、自動車では113時間、鉄道では約5日21時間かかることになります。 大黒屋 光太夫位、甲一行、漂白の足跡 出典:東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 出典:グーグルマップ経路探索システム ◆魯西亜国漂舶聞書磯吉談 1792年~1828年 江戸 あしかけ10年シベリア漂泊1万キロ 大黒屋 光太夫位、甲一行、漂白の足跡 出典:東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 江戸時代、ロシアへの漂流民として知られる大黒屋光太夫ら17名の漂流記です。皇帝エカテリーナ2世に帰国を願い出るため、一行は真冬のシベリアを横断します。 1782年から1792年までの足かけ 10年、距離にして1万キロにも及ぶものでした。本書は光太夫とともに帰国した磯吉の話にもとづく、手書きの記録です。 以下は手の手書きの記録です。 出典:東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料 出典:東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 出典:東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 出典:東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 出典:東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 出典:東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 出典:東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 出典:東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 出典:東洋文庫ミュージアム、ロマノフ王朝企画展資料 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 ◆1729年夏の「薩摩漂流民」について なお、黒田光太夫とは別に、それよりはるか前の1729年夏に「薩摩漂流民」があります。以下は東洋文庫ミュージアム ロマノフ王朝展パンフレットpp.9からの抜粋です。 カムチャッカ誌(クラシェニンニコフ 1794年ロンドン刊)には、カムチャッカに流れ着いた薩摩漂流民について、以下の記述があります。 「1729年夏の記事に、カムチャッカに漂着した日本人17名のうち15名がコサックに殺害され、生き残った2名がサンクトペテルブルグへ送られたとあります。この2名は薩摩出身のソウザ(35歳)とゴンザ(11歳)と推測されます。二人は、アンナ女帝に謁見し、日本語教師となりました。ソウザの死後、ゴンザは世界初となる露和辞典を完成させ、21歳で亡くなるまで、ロマノフ王朝における日本研究の礎を築きました。」 大黒屋光太夫がロシアに漂着したのはそれから50年余り後の1872年7月のことですから、薩摩のゴンザが作成した露和辞典が役に立ったのかもしれません。 出典:東洋文庫ミュージアム ロマノフ王朝展パンフレットpp.9 ◆出典 参考文献 生田美智子『大黒屋光太夫の接吻 異文化コミュニケーションと身体』(平凡社選書) - 平凡社(1997年2月) ISBN 458284166X 植木静山『ロシアから来た黒船 幕末の北方領土交渉』 - 扶桑社(2005年8月) ISBN 4594049958 桂川甫周 著・亀井高孝 校訂『北槎聞略 大黒屋光太夫ロシア漂流記』(岩波文庫) - 岩波書店(1990年10月) ISBN 4003345614 亀井高孝『大黒屋光太夫』 - 吉川弘文館(1987年2月) ISBN 4642050671 木崎良平『光太夫とラクスマン 幕末日露交渉史の一側面』 - 刀水書房(1992年3月) ISBN 4887081340 木崎良平『漂流民とロシア 北の黒船に揺れた幕末日本』(中公新書) - 中央公論社(1991年6月) ISBN 4121010280 山下恒夫『大黒屋光太夫 帝政ロシア漂流の物語』(岩波新書) - 岩波書店(2004年2月) ISBN 4004308798 山下恒夫編纂『大黒屋光太夫史料集』 - 日本評論社 第1巻(2003年1月) ISBN 4535066175 第2巻(2003年3月) ISBN 4535066183 第3巻(2003年5月) ISBN 4535066191 第4巻(2003年6月) ISBN 4535066205 吉村昭『大黒屋光太夫』 - 毎日新聞社(2003年2月)・新潮社(新潮文庫、2005年6月) 上巻 ISBN 4620106658(毎日新聞社)・ISBN 4101117470(新潮文庫) 下巻 ISBN 4620106666(毎日新聞社)・ISBN 4101117489(新潮文庫) 大黒屋光太夫記念館 開館記念特別展「大黒屋光太夫とふるさと・魯西亜・日本」(図録) - 鈴鹿市(2005年11月) 大黒屋光太夫記念館 開館1周年記念展「帰ってきた 光太夫~ラクスマンの来航と日露会談~」(図録) - 鈴鹿市(2006年10月) 以下は2017年6月のロシアのスプートニクの特集記事です。 ※ 日露関係はすべて、大黒屋光太夫が海で遭難したことから始まった Source:Sptunik June 2017 つづく (マイセン磁器へ) 総目次に戻る |