厳寒のロシア2大都市短訪 パヴロフスク宮殿 歴史1 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2017年5月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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ロシア短訪・総目次に戻る ・パブロフスク宮殿 パブロフスク宮殿 歴史1 パブロフスク宮殿 歴史2 パブロフスク宮殿 概要 パブロフスク宮殿 内部概要 パブロフスク宮殿 庭園 ◆サンクトペテルブルグ(Saint Petersburg) サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群 パヴロフスクの紋章 以下はパヴロフスクの歴史です。 ◆パヴロフスク宮殿の歴史 パヴロフスクの歴史は、1777年に皇帝エカチェリーナ2世が息子パーヴェル(後の皇帝パーヴェル1世)に第一子アレクサンドル(後のアレクサンドル1世)が生まれたことを祝い、スラヴャンスカ川に沿った362デシャチーナ(=395ヘクタール)ほどの土地をパーヴェルに与えたことに始まります。パヴロフスクという地名は、パーヴェルの名にちなんでつけられました。 最初はマリエンタール(Marienthal)とパウルスト(Paullust)というドイツ風の小さな邸宅が控えめに建っていましたが、やがて手狭となり大きな宮殿を建てる計画がもち上がりました。 1780年、スコットランド人の建築家でエカチェリーナ2世の宮廷に使えていたチャールズ・キャメロン(Charles Cameron)が、パヴロフスクにおける宮殿造営の責任者となりました。彼は2年後、新古典主義様式の大宮殿のデザインを提案し、パーヴェルに承認されました。 パブロフスク計画、1915年のリソグラフィ。 Source:Wikimedia Commons By Vvk121 Владимир Васильев - Own work, CC BY-SA 4.0, Link 宮殿の周辺には広大な英国式庭園が造られ、その中に多くの神殿風の廃墟、キオスク、コロネード(列柱)、石橋、彫刻などを配置しました。宮殿と庭園の建設には多くのイタリア人やロシア人の建築家が関わり、1786年に建物が完成しました。 1796年にパーヴェルが皇帝パーヴェル1世として戴冠(以下のロシア帝国における歴代皇帝参照)すると、パヴロフスク宮殿の周囲の集落は都市といえるほどに大きくなりました。パーヴェル1世の皇后のマリア・フョードロヴナ(ゾフィー・ドロテア・フォン・ヴュルテンベルク)はその後も営々と庭園を拡張し続け、現在見るような立派な庭園を完成させたのです。 下は広大な敷地の中にあるロッジです。現在でも、この辺り一帯はサンクトペテルブルグ市民の別荘があります。 A.P.Bryullovaロッジ。(サンクトペテルブルク、パブロフスク、ストリートエリザベス朝の通り。2A、2) Source:Wikimedia Commons Автор: GAlexandrova - собственная работа, CC BY-SA 3.0, Ссылка パーヴェル1世の死後、パヴロフスク宮殿は皇后マリア・フョードロヴナが所有を宣言し、その後は皇族ロマノフ家のコンスタンチノヴィチ系の家族へと渡されてゆきました。 ロマノフ王朝 ロシア帝国における歴代皇帝(インペラートル) 黄色は女帝
その後の歴史 ロシア革命以前、パヴロフスクは首都サンクトペテルブルクに住む富裕な住民たちのお気に入りの夏の別荘地でした。 フョードル・ドストエフスキーの小説『白痴』には、パヴロフスクの別荘(ダーチャ)に住む裕福な人々(「ダーチニキ」、dachniki)たちの生活が描かれています。 彼女の4人の娘と一緒のTsarina アレクサンドラのこのパブロフスク公園での写真 Source:Wikimedia Commons By Unknown author - Romanov Family Album 5, page 53, image no. 6, Attribution, Link つづく |