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厳寒のロシア2大都市短訪
 

   サンクトペテルブルグ

歴史


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo

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サンクトペテルブルグ(Saint Petersburg)

     
サンクトペテルブルグ市紋章   サンクトペテルブルグ市旗    

◆サンクトペテルブルグの歴史

歴史

名前の変遷


 都市の名は「聖ペテロの街」を意味しています。これは、建都を命じたピョートル大帝が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたものです。隣国のフィンランドではサンクトペテルブルクを、ペテロのフィンランド語名そのままにピエタリ (Pietari) の名で呼んでいます。

 当初はオランダ語風にサンクト・ピーテルブールフ (Санкт-Питер-Бурх) と呼ばれていましたが、後にドイツ語風にサンクト・ペテルブルク (Санкт-Петербург) と呼ばれるようになります。

 なお、単にペテルブルクと呼ばれることも多く、下の地図にあるようにロシア帝国の首都として長く定着していました。

国名 時代区分 継続年 首都
モスクワ大公国 1263年 - モスクワ
ロシア・ツァーリ国 1547年 - 1564年 174 モスクワ
1564年 - 1581年 アレクサンドロフ
1581年 - 1712年 モスクワ
1712年 - 1721年 サンクトペテルブルグ
帝政ロシア(ロマノフ王朝) 1721年 - 1914年 196 サンクトペテルブルグ
1914年 - 1917年 ペテログラード
ロシア臨時政府 1917年 1未満 ペテログラード
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 1917年 -1922年 5 モスクワ(1918~)
ソビエト連邦(USSR) 1922年 - 1924年 95
1924年 - 1991年
ロシア 1992年 -
ペテログラードはサンクトペテルブルグの別称です。
出典:Wikipedia、各種文献を参考にして青山が作成

 1914年、第一次世界大戦が始まりロシアがドイツと交戦状態に入ると、ロシア語風にペトログラード (Петроград)[4] と改められ、さらにロシア革命によりソビエト連邦が成立すると、1924年よりレーニンにちなんでレニングラード (Ленинград, リニングラート) と改称され、この名称が半世紀続きました。

 しかし、ソ連崩壊を受け、1991年に住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称に再び戻りました。ロシア人の間ではピーテル (Питер, ピーチェル) の愛称で呼ばれます。州名は従来どおりレニングラード州となっています。


青銅の騎士像。市の建設者ピョートル1世を記念した像
Source:Wikimedia Commons
מאת Lite - נוצר על ידי מעלה היצירה, CC BY-SA 3.0, קישור


サンクトペテルブルグ市の建設以前

 ネヴァ川河口域は、古くはバルト海からヴォルガ川、ドニエプル川といった内陸水路を通じて黒海へと向かう「ヴァリャーグからギリシャへの道」と呼ばれた交易ルートに位置し、ルーシの北辺に位置していました。

 キエフ公国が分裂するとノヴゴロド公国の辺境地帯となりました。ノヴゴロドはここから発するネヴァ川水路でバルト海とつながっており、ハンザ同盟の4大商館のひとつが置かれていました。

 一方で、ネヴァ川河口はフィンランドを支配下に置くスウェーデンとの国境地帯ともなっていました。1240年には両国の間に、現在の中心部東端に当たる場所でネヴァ河畔の戦いが起こりました。この戦いはノヴゴロド公アレクサンドルの活躍によりノヴゴロド側が勝利し、アレクサンドルはネヴァ川の勝利者という意味のネフスキーという名を加え、以後アレクサンドル・ネフスキーを名乗るようになりました。

 アレクサンドル・ネフスキーはロシアの英雄の一人となり、サンクトペテルブルク建都後に彼を記念して、古戦場にアレクサンドル・ネフスキー大修道院が建てられました。その後はノヴゴロドを併呑したモスクワ公国領となっていましたが、1617年にスウェーデンがここを奪取しました(ストルボヴァの和約)。ほどなくスウェーデンは三十年戦争を通じて、フランス・オランダと経済協力関係を結びました。そしてアムステルダム資本がサンクトペテルブルクへ流入しました。

都市の歴史-ロシア帝国時代

 サンクトサンクトペテルブルグは、ピョートル大帝によって1703年5月27日に築かれた人工都市であり、現在でも5月27日は建市記念日として市の祝日となっています。大北方戦争に苦心する中で、スウェーデンから奪取したバルト海・フィンランド湾沿岸のイングリアに新都として造営されました。造営前のサンクトペテルブルク一帯は荒れ果てた沼地でした。

 河口付近にはペトロパヴロフスク要塞も同時並行で建設されました。建造作業は過酷なもので1万ともいわれる人命が失われたと言います。これらの建設費用と、これから必要とされる軍事費が、借款ないし貿易黒字としてサンクトペテルブルクに期待さましれた。ロシアがポルタヴァの戦いに勝利してから、1713年この地へ遷都が行われました。

 1725年に皇帝エカチェリーナ1世が首都へ科学アカデミーを創設しました。同年、人口が10万人を超えました。翌年ウィーン同盟に加盟しました。ウィーン同盟とは、1719年1月5日に神聖ローマ皇帝カール6世がロシアとプロイセン王国を仮想敵国として、ザクセン・ポーランド王国・グレートブリテン王国・ハノーファー王国と組成したものでした。

 1728年イスタンブールに印刷所ができました。オスマン帝国の情報が黒海経由で科学アカデミーに集積され、それがライン川へ送られました。ロシアはオーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)でブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒに軍政を委ねアゾフ海とクリミア半島の奪取に成功しました。

 歴代ロシア皇帝は首都の整備を続けました。1754年には王宮として冬宮が完成します。

 ネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが作られて行きました。1757年には演劇アカデミーが創設され、エカチェリーナ2世時代の1762年には冬宮の一角にエルミタージュ美術館の元となる展示室が開設されました。

 6年後に貨幣改革をして、1769年1月にロシア初の紙幣アシグナツィアを流通させました。この年アムステルダムでロシア初の外債も発行しました。このため市章はラバルムをモチーフとします。

 1779年、アシグナト銀行が設立されペテルブルクで銀行業務を行いながら、地方都市に割引事務所を開設しました。

 1800年、人口が22万人居住する都市となっています。

 1812年、ナポレオンはモスクワだけ焼いて帰りました。1817年、アシグナト銀行本体と割引事務所が母体となり、国立商業銀行が誕生しました。

 1819年にはサンクトペテルブルク大学が創設され、1825年にはデカブリストの乱がこの街で起きたもののすぐ鎮圧されました。1837年にはペテルブルクとツァールスコエ・セローとの間にロシア初の鉄道が建設されました。この鉄道事業には、ベアリングス銀行とホープ商会が投資していました。

 1851年にはモスクワとサンクトペテルブルク間の鉄道が完成しました。1860年、政府は国立商業銀行などを統合して、国立銀行を設置しました。1869年、人口は67万となります。

 1873年当時のサンクトペテルブルクの様子は日本の岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』に詳しく記されています。


帝政ロシア時代のサンクトペテルブルグ(St.Petersberg)主要部
1910年時点におけるサンクトペテルブルクの地図
Source:Wikimedia Commons

 1897年、国立銀行が中央銀行となり、このときロスチャイルドのロシア投資を仲介するアレクサンドル・スティグリッツが初代総裁となりました。

 1898年6月、国立銀行が露清銀行の新株を全部引き受けて、パリバの支配力に対抗しました。

 19世紀末には聖イサアク大聖堂や血の上の救世主教会など、現在でもサンクトペテルブルクの名所となっている建築物が相次いで建設されました。また、民間の経済力も向上し、ネフスキー大通りを中心に豪壮な建築物が立ち並ぶようになりました。

 これらの建物の一部は、現在でも残っています。1910年、人口は190万人に達しました。同年、露亜銀行が誕生しました。このころ、株式商業銀行をふくめたペテルブルクの銀行群がロシアの金融界で支配力を急速に増しました。これらは露仏同盟などをきっかけに都市開発が進んだ結果です。1912-14年、ロシアの大銀行がパリ・ロンドンなどの国際金融市場へ支店・持株会社を設立しました。

都市の歴史-ソビエト連邦時代

 スモーリヌイ修道院はソビエト政権独立宣言がここで行われ、首都がモスクワに移されるまでソビエト政府の中枢でした。


スモーリヌイ修道院はソビエト政権独立宣言がここで行われ、首都がモスクワに移される
までソビエト政府の中枢であった。
Source:Wikimedia Commons
Készítette: George Shuklin - A feltöltő saját munkája, CC BY-SA 1.0, Hivatkozás



ロシア革命時、冬宮前に押し寄せる民衆
Source:Wikimedia Commons
不明 - Ross, Edward Alsworth: The Russian Bolshevik revolution (1921)https://archive.org/details/russianbolshevik00rossuoft, パブリック・ドメイン, リンクによる


 ロシア革命では二月革命・十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こりました。その後、ソヴィエト政権は外国からの干渉を恐れ、首都をより国境から遠いモスクワに移転、1922年に正式に定められたことで、この町は政治の中心地から外れました。


レニングラード市の紋章
Source:Wikimedia Commons
Автор: AlexTref871 - собственная работа, Общественное достояние, Ссылка


 ロシア‐フィンランドの国境に近いため、スターリンはフィンランドに対して「大砲の射程内の地域」の割譲を要求したが、フィンランドはこれを拒み、1939年の冬戦争が勃発します。絶望的な戦力差においても多大な犠牲をソ連に強いたフィンランドは善戦しましたが、結局翌1940年には当該地域の割譲をもって講和がなされ、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営参加を招くことになります。

 第二次世界大戦中は、フィンランドとドイツ両軍を基幹とする枢軸軍によって約900日、足掛け4年にもわたる包囲攻撃を受けます。これをレニングラード包囲戦といいます。枢軸軍は敵の戦意を挫くため街と外部の連絡を徹底的に絶ち、物資が途絶えた市中では飢餓により市民・軍人に多数の死者が発生しましたが、ソ連側は凍結した湖から細々と物資輸送を行うなどして耐え抜きました。その功績により、レニングラードは英雄都市の称号を与えられました。

 戦後もレニングラードはソ連第二の都市として存在しましたが、その歴史的経緯や地理的要因からモスクワとは違った文化や風土を維持しています。また、レニングラードの共産党第一書記になることは、ソビエト体制の中で重要な位置を占めることと同義であり、クレムリンでの権力ゲームでも影響力を持つことになりました。とはいえ、ロシア革命以降でサンクトペテルブルク(レニングラード)出身者がトップに登り詰めたのはソ連崩壊後、21世紀になって大統領や首相に選ばれたウラジーミル・プーチンが初めてです。

都市の歴史-ロシア連邦

 1998年に周辺の8市17町(ツァールスコエ・セローがあるプーシキン市やクロンシュタット等)を編入し、市域が拡大しました。2008年5月、首都モスクワから憲法裁判所が移転し、サンクトペテルブルクはロシアの首都機能の一部を担うこととなりました。

 2006年に第32回主要国首脳会議(G8サミット)、2013年にG20が開かれています。会場はストレルナ(ru:Стрельна)のコンスタンチン宮殿(ru:Константиновский дворец)です。


つづく