厳寒のロシア2大都市短訪 冬宮殿の部屋と広間 アラビアの間 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2017年5月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
ロシア短訪・総目次に戻る ・エルミタージュ冬宮(本館)の主要施設 ヨルダンの階段 大玉座の間 紋章の間 マーシャル将軍の間 軍事の間 大教会 アレクサンダーの間 白色の大広間 黄金の応接間 クジャク石の間 アラビアの間 ネヴァ河3広間 コラス1世円形の間 私的居住空間 庭園 コンサートホール ◆サンクトペテルブルグ(Saint Petersburg) サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群 ◆アラビアの間 アラビアの間は冬宮の左上の赤い部分にあります。 冬宮殿におけるアラビアの間の位置 Source:Wikimedia Commons アラビアの間で、皇帝の4人のエチオピア人の侍者の一人を描いたもの。 コンスタンチン・ウクトムスー画(1860年代) Source:Wikimedlia Commons By Konstantin Ukhtomsky - A.Н. Воронихина Виды залов Эрмитажа и Зимнего Дворца в акварелях середины 20-го века Москва Искусство 1983, Public Domain, Link サンクトペテルブルグ冬宮殿にあるアラビア大広間は、時に、ブラックムーア大広間、またはアラビアダイニングルーム(食堂)としても知られていて、プライベートルームの一つです。帝政時代は、この部屋から議会棟に向けて、宮廷の皇族たちの行列が始まる部屋でした。 二重ドアは、主要な議会棟とヨルダン階段を繋ぐ直線上の軸にまっすぐ繋がるように設計され、その間に広間の縦列(エンフィラード)を形成しています。 したがって、ロマノフ家の人々にとって、ここで、しばしば国家のレセプションや公的な仕事の前に、個人的に家族が集まる部屋でした。この部屋の部屋のプライバシーは、小さなプライベート中庭(図参照)があることによって、守られていました。その庭に面した窓から、かつては階下の皇后陛下の冬の庭から光が差し込んでいました。 アレクサンダー・ブリュロフが設計した冬の宮殿は1837年の火災の後、部屋は、ポンペイ様式として知られる19世紀初頭のファッショナブルな新古典派様式で装飾されました。古典的なモチーフで漆喰に浅浮き彫りを施した浅い仕切り壁をで分割された樽型(半円筒型)の天井は、溝を掘った緻密な彫刻と土台のないギリシャのドーリス式円柱によって支えられています。 ギリシャの紗綾形模様(卍を斜めに幾つ重ねたもの:キー・フレット)は、部屋の周りをぐるっと取り囲み、柱の上部の水平部分(エンタブラチャ)を豪華なものにしています。 唯一の調度品は、形式的に壁の周りに配置されたギリシャのクリスモスのダイニングチェアでした。 註)キリスモス:古代ギリシアの椅子で背板が深く内側へ曲がっており,脚は外側に弓なりに開いているもので主に婦人用. 皇帝一家がここで食事をするときには、食卓が運び込まれ、テーブル掛けや料理が並べられ、その後また片付けられていました。 いろいろ地理的にその位置が混乱しているアラビアンホールの名前は、独特の内容からではなく、宮殿から宮殿へと移動する皇室一家に付き添った皇帝の4人の公的偽ボディーガードに由来しています。彼らは、4人の「大きな黒人」で、 素敵な真っ赤なズボン、金色のジャケット、白のターバンを着用し、先の曲がった靴を履いていました。皇帝がどこにいても、この4人は、私的な部屋と公的な世界を繋ぐあらゆる扉を守っていたのです。彼らはこれらの扉を開けたり閉めたりする役割以外に仕事は有りませんでした。彼らが、突然あるいは静かに部屋に現れるのは、皇帝あるいは皇后の急なお成り(登場)のサインでも有りました。 警備員たちはエチオピア人、またはブラックムーア人と呼ばれましたが、1896年からは少なくとも1人はアメリカ人でした。 ジム・ヘルクレスはアメリカで休暇を取って、帝国の子供たちのために常にグアバゼリーの瓶を持ち帰っていました。 現在、空っぽのホールはたまに、国立エルミタージュ美術館が主宰する特別な展示の際に使われています。 つづく |