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厳寒のロシア3大都市短訪

聖ワシリー大聖堂

名称・構造


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo

無断転載禁
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 ・聖ワシリー大聖堂
  概要        名称・構造    歴史  
  外観・外装     内部・内装     イコン・フレスコ画


◆モスクワ市の寺院



名称・記憶

 1588年にフョードル2世が、大聖堂東側にあった佯狂者ワシリー(Василий)の墓の上に聖堂を建設して以後、ワシリー大聖堂の名で親しまれています。"Василий"は「ヴァシーリー」「ワシーリー」「ワシリー」などの転写例がありますが、正教会の大聖堂のものであるため、本記事の名は日本ハリストス正教会による伝統的な転写に拠っています。

 正式名称は「堀の生神女庇護大聖堂」(Собор Покрова что на Рву )でし。Покровский собор(ポクロフスキー サボール)という呼称もあり、この前半部が片仮名で転写されたのが「ポクロフスキー大聖堂」の表記です。

 Покров(ポクロフ…「庇護」を意味するロシア語)に由来する名であり、生神女庇護祭(Покров Пресвятой Богородицы)を記憶する大聖堂である事を示しています。

 ロシアのレニングラード州と、ウクライナのハルキウ(ハリコフ)にも「ポクロフスキー大聖堂」が存在する事にもみられるように、生神女庇護祭を記憶する聖堂(ポクロフスキー大聖堂・ポクロフスキー聖堂)は世界中各国の正教会に多数あり、日本ハリストス正教会でも横浜、静岡、大阪の聖堂は生神女庇護聖堂です。

 ただし、日本で「ポクロフスキー大聖堂」と言えば、当記事で扱っている赤の広場に面した聖ワシリー大聖堂の異名を持つポクロフスキー大聖堂を指すのが一般的です。世界的にみても最も知名度の高い生神女庇護大聖堂です。

沿革・構造の意義

 ツァーリ・イヴァン4世(雷帝)のカザン征服を記念して建てられました。当初、聖堂が記憶していたのは生神女庇護であり、聖堂名も生神女庇護大聖堂(ポクロフスキー大聖堂)でした。

 カザン戦からイヴァン4世が帰還した年に木造で建てられ、2年後に石造での改築が始まり、5年後の1559年に完成していています。建築にはバルマとも呼ばれるポスニク・ヤーコブレフが当たっりました。


大聖堂を描いた16世紀の版画
Source:Wikimedia Commons
不明 - А.С. Трачевский "Русская История", CПб, Риккер, 1895, パブリック・ドメイン, リンクによる


 完成時点では現在みられるような彩色はされておらず、今日見る聖堂の彩色は17世紀から19世紀にかけて施されたものです。

 中央の主聖堂を、それぞれがドームを戴く八つの小聖堂が取り囲んでいます。主聖堂、八つの小聖堂のそれぞれに至聖所があり、合計九つの聖堂が集まって一つの大聖堂を形成しています。

 生神女マリヤのイコンには8つの光線(突起)がある星が描かれることにもみられるように、生神女マリヤの象徴です。

 またカザン戦の勝因となった日にちである7日と聖枝祭を祝う計8日との意味合いも込められています。8つの小聖堂が中央の生神女庇護大聖堂を取り囲んで支える構造は、8つの小聖堂が生神女に庇護される構造であるとも解釈されます。

 9つあるドームの全ての高さ・大きさ・装飾が異なるものとなっています。

 のち、佯狂者ワシリーを記憶する小聖堂が加えられた事で、聖ワシリー大聖堂の通称で親しまれる事となりました。


Floorplan of en:Saint Basil's Cathedral, east at the top, west at the bottom. As reconstructed in 1930s by Nikolai Brunov   
Source:Wikimedia Commons
Di NVO - Komech, Alexey, Pluzhnikov, A. I. (editors) (1982) (in Russian). Pamyatniku arhitektury Moskvy. Kremlin, Kitai Gorod, tsentralnye ploschadi (Памятники архитектуры Москвы. Кремль, Китай-город, центральные площади). Iskusstvo., Pubblico dominio, Collegamento


設計者を巡る史実ではない逸話

 聖ワシリー大聖堂の完成にあたっては、以下のエピソードが伝えられています。

 七つの塔を持ち、その全てが異なるデザインであることから、一見統制が取れていないように思われるかもしれませんが、世界でも有数の美しい建造物として有名です。

 そのあまりの美しさゆえ、完成後イヴァン4世はこれより美しい建造物が建てられることを恐れ、設計者ポスニク・ヤーコブレフの目を潰して失明させたといいます。

 しかしイヴァン4世の残虐な独裁性を伝える有名なエピソードではありますが、実際には大聖堂の完成後もヤーコブレフが他の重要な建造物の設計を担当していた記録が存在することから、このエピソードはあくまでも伝説で史実ではないとされています。

 大聖堂の完成当時、イヴァン4世の国内における治世はまだ穏やかなものであり、オプリーチニナ制に代表される恐怖政治はまだ開始されていませんでした。


ソ連時代の聖ワシリー大聖堂をモチーフにした5ルーブルの記念コイン
 Source:Wikimedia Commons
By The coin was minted by one of the defunct Soviet mints, the image was created by Assassin3577 - Own work (photograph), Public Domain, Link


つづく