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2014 初夏の浅間高原

(1)下久保ダム・神流湖

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

July 28, 2014
Alternative Media E-wave Tokyo
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(1)下久保ダム・神流湖
  (2)JAL墜落現場再アタック (3)鬼押出し園-1
(4)鬼押出し園-2  (5)八ッ場ダム工事7-1  (6)八ッ場ダム工事-2 
(7)八ッ場ダム工事、温泉移設  (8)野反湖とキスゲ  (9)碓氷峠とおぎのや


 ここ10年、ゴールデンウィークと8月から9月にかけ、避暑をかねて北軽井沢にある環境総合研究所の別荘にでかけている。

 今年はじめて7月に10日間、北軽井沢の別荘を拠点にあちこち現地調査や視察をした。具体的には、2014年7月16日〜24日まで初夏の浅間高原とその周辺に出かけた。

 昨年8月、周到な準備をして群馬県上野村にある日航機墜落現場の「御巣鷹の尾根」に向かったが、あと少しのところで土砂崩れで道がふさがれ断念した。今年は事故日(1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分)のほぼ1ヶ月前となる7月16日午後に再度御巣鷹の尾根にアタックすることとした。

 昨年、日航機事故問題について多くのブログを書いた。その目的は、いまだ墜落原因が不明確、不明朗な日航機事故の全容及び疑義について国民的な関心を呼び起こすためである。

 2014年の今年は、周知のように二度にわたるマレーシア機墜落(撃墜)事故があった。また台湾やアルジェリアでも航空機墜落事故が続いている。とりわけマレーシア機については、事故原因の究明に不透明さがつきまとう。

 ところで、昨年は東京から群馬県上野村にある日航機事故の墜落現場近くまで行ったものの、上野村から御巣鷹の尾根に登る林道が土砂崩れのため通行止めとなった。 今年も東京の練馬から関越自動車道の花園インターに向かい、その後一般道路で上野村に入った。

 このルートは上野村に行く場合だけでなく、寄居、皆野、秩父などに行く場合も使っている。

 今回も花園インターを出てから一般国道140号線→一般国道299号線を経由して上野村に行くはずであったが、どこでどう間違ったか、一般国道299号線(武州街道)ではなく一般道国道462号線(十国峠街道)で神流町(かんなまち)まで行き、その後いつもの一般国道299号線で上野村に入ることになった。

 下の地図は関越自動車道の花園インターから一般国道299号線(武州街道)と一般道国道462号線(十国峠街道)の合流地点までを示している。全体の距離はそれほど変わらないがはずだが、国道462号線ルートは初めてであったためか、遠く感じた。


関越花園インター(東、右端)から上野村(西、左端)へのルート
出典:グーグルマップ

 結果として、299号線ルートでは見られないすばらしい自然景観を見ることができた。

 たとえば、下久保ダム、神流湖である。

 一般道国道462号線(十国峠街道)は、群馬県藤岡市と埼玉県秩父市の県境沿を東西に走っている。上の地図を見れば分かるが、その途中に細長い下久保ダム、神流湖(かんなこ)があり、湖畔を何kmにもわたり走っている。

 私達は、埼玉県秩父市側の奥秩父にもよく出かけているが、この神流湖の南側には埼玉県秩父市の城峯山(じょうみねさん)がある。

 昨年この城峯山も現地視察している。このあたりは、おそらく埼玉県や群馬県の人々であっても、あまり知らない、行かない、いわば辺境の地のように思える。実際、一般道国道462号線の神流湖付近は30分ほど走って数台しかすれ違う車もなかった。

 下のグーグルの衛星地図は、東西に伸びる神流湖の全体像を示している。

 一番右端(東)に下久保ダムの突堤がある。この地形を見て、私は現在、群馬県長野原町で進められている八ッ場ダムの工事現場を思い起こした。八ッ場ダムでは、左側の上流域が嬬恋村、ダム本体までが長野原町、その右側が東吾妻町に相当する。
 

下久保ダム、神流湖(かんなこ)
出典:グーグルマップ

 下の写真は自動車走行中に撮影した下久保ダムの本体である。非常に険しく切り立った山々の谷に下久保ダムがある。


下久保ダム本体
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-7-16

◆下久保ダム(しもくぼダム)

 群馬県藤岡市と埼玉県児玉郡神川町にまたがる、一級河川・利根川水系神流川(かんながわ)に建設されたダムである。独立行政法人水資源機構が管理する多目的ダムで、堤高129.0メートルの重力式コンクリートダム。首都圏の水がめである利根川水系8ダムの一つであり、規模としては矢木沢ダム(利根川)に次ぐ大規模なダムである。また、烏川流域のダム群の中では最も規模が大きい。ダム湖は河川名を採って「神流湖」(かんなこ)と命名され、2005年(平成17年)に当時の鬼石町の推薦によって財団法人ダム水源地環境整備センターが選定する「ダム湖百選」に選ばれている。

沿革(抜粋、概要)

 1947年(昭和22年)カスリーン台風が襲来し大打撃を蒙った利根川流域。根本的な治水対策が求められるようになった経済安定本部は1949年(昭和24年)に利根川を始め全国主要10水系を対象に「河川改訂改修計画」を策定した。利根川については「利根川改訂改修計画」を策定、これに沿って建設省関東地方建設局(現・国土交通省関東地方整備局)は利根川水系に九基の多目的ダムを建設して利根川の総合的な治水を図ろうとした。

 建設省は烏川流域で流域面積の広い神流川に着目、当時の多野郡鬼石町坂原(現・藤岡市坂原)に「坂原ダム」を建設して治水を行おうとした。高さ120.0メートル、総貯水容量が約2,200万トンという規模のものであった。だが「坂原ダム」は調査を行っただけに終わり、その後より良いダム地点の検索を行った。「坂原ダム」中止後はより上流の多野郡中里村(現・多野郡神流町)神ヶ原地点に「神ヶ原ダム」を建設する計画も浮上したが、これも断念された。

 曲折の後に現在のダム地点と下流500メートル地点の二箇所が最終候補として選定されたが、下流案は地質的な問題があり最終的に現在の下久保地点がダム地点として決定された。

 ダム建設に伴って群馬県(鬼石町・万場町)と埼玉県(神泉村・吉田町)の二県四町村にまたがる321戸・364世帯が水没対象となった。このためダム建設に対する反対運動は激しく、補償交渉は長期化した。

 最終的にインフラ整備や地場産業発展育成などといった補償内容が呈示されて交渉は妥結した。首都圏発展の尊い犠牲となった364世帯の住民への報恩のため、現在ダム傍には「望郷之碑」が建立されている。この碑にはダム建設に伴って故郷からの移転を余儀無くされた住民全ての氏名が彫られており、苦渋の決断を行った住民の労苦を偲ばせる。なお、「望郷之碑」の毛筆体を揮毫(きごう)したのは、当時の内閣総理大臣・佐藤栄作である。

出典:Wikipedia

ダム湖百選 神流湖


下久保ダム本体
出典:Wikipedia

 下に示すグーグルストリートビューの写真は下久保ダム本体の突堤部分である。 写真を撮影した位置は、一般道国道462号線から少し南側(ダム側)に入ったの位置である。


下久保ダム本体の突堤部分
出典:グーグルストリートビュー


★が上の写真の撮影箇所
出典:グーグルマップ

 なお、以下は下久保ダム、神流湖の諸元である。今までほとんど気づかなかったダム湖であるが、1967年に竣工した相当古いダムであり、群馬県と埼玉県のちょうど境界線上にある。

 表  下久保ダム、神流湖の諸元
所在地 左岸:群馬県藤岡市鬼石
右岸:埼玉県児玉郡神川町矢納
河川 利根川水系神流川
ダム湖 神水湖
ダム諸元
ダム型式 重力式
コンクリートダム
堤高 20.5 m
堤頂長 128.0 m
堤体積 19,000 m3
流域面積 337.8 km2
湛水面積 8.0 ha
総貯水容量 235,000 m3
有効貯水容量 200,000 m3
利用目的 発電
事業主体 群馬県
電気事業者 群馬県企業局
発電所名
(認可出力)
鬼石発電所
(790kW)
施工業者 熊谷組
着工年/竣工年 /1967年

 今回もでかけた群馬県、長野県、福島県、新潟県の県境にある野反湖もそうだが、竣工から半世紀ほど経過したダム湖は、自然湖と見間違うほど美しい景観をつくりだしている。とはいえ、これほど巨大なダムが本当に必要であったのかどうかは??である。

 当時は、私がいうところの昔、「関東軍」、今「建設省」がひとたび地図上にダムや道路の位置を決めれば何が何でも、いかなる反対があれ、ダムを造れば道理が引っ込むとばかりダムや道路をつくってきた。日本の巨大公共事業の多くは、私が永年授業で学生に述べてきた<必要性>、<妥当性>、<正当性>の第三者的検証もないまま、建設省、現在の国土交通省の号令一下、つくられてきた経緯がある。その意味で、日本は本当に民主主義国家なのか、いまだに??と思える。

  今の日本では、英国などとは異なりどんな公共事業であれ、事業省庁の調査、評価結果はすべて手前味噌となっており、つくる前の<必要性>、<妥当性>、<正当性>の第三者的検証がなされていないことが最大の問題と言える。 以下は国土交通省の委員会が行った下久保ダム事業管理のフォローアップ報告(パワーポイント)である。

◆第21回 関東地方ダム等管理フォローアップ委員会
 平成24年12月3日 国土交通省関東地方整備局
 下久保ダム直轄総合水系環境整備事業

 下久保ダムにより水没した多くの集落や反対運動については、以下が参考になる。


 下久保ダム建設によって、下流部では大きな恩恵を受けた一方、建設地 である群馬県鬼石町(旧美原村)大字保美濃山、大字坂原、大字譲原、下久保 の一部、万場町の一部、及び埼玉県神泉村・吉田町の一部が水没することになり、 建設に伴う水没世帯数は321世帯に及びました。 これは、利根川水系のダム建設の中では最大だそうです。

 そして、現在群馬県長野原町の吾妻川に建設計画の進む八ツ場ダムは 川原湯温泉をはじめとした5地区、340世帯と45haの農地、学校、国道 145号線の一部、JR吾妻線の一部などが水没することになる大ダムです。 このダムも首都圏への都市用水の供給が主な目的です。

 当初住民は反対派、一部推進派、中立派に別れ、ダム建設による対立は様々 な地域の混乱を招いたそうですが、約50年にも及ぶ反対運動に疲れ、徐 々に反対派から脱落、現在は生活再建に向けた協議が続いています。 ただ、本当にダム建設を認めている住民はいないでしょう…。

 ダム建設では、水没に伴う生活空間の狭小化、地域コミュニティの解体、 経済基盤喪失に伴う人口流出、長期に及ぶ計画や国の切り崩しなどによる 精神的苦痛など様々な問題が生まれてきました。我々都市住民の生活がこのよ うな山村地域の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはなりません。

出典:2004.10.06 [神流湖 太田部橋]

 この下久保ダムも、例のカスリーン台風後、建設省が利根川水系の各所に、大洪水を防ぐことを金科玉条として強引につくってきたダムの一つである。その後、総理大臣を3人も出した群馬県を中心に膨大な数のダムをつくり続けてきたが、今なお八ッ場ダムという巨大なダムを5000億円を超す税金、公金でつくり続けている。本来、ある程度、ダムや道路の建設が一段落したら、霞が関、各地方整備局などの人員も大幅に減らし、メンテナンス中心の体制とすべきなのに、日本ではなぜか、いつになっても土建系人員の大幅な削減はない。

 また日本には、バブル崩壊以前、大小60万社、600万人もの土建業があった。しかし、バブル崩壊後も1−2割減っているだけで依然として土建関連企業、人員がある。まるでお隣の国を笑えない官僚社会主義国家である!

 下は上野村に行った位置で撮影した神流湖である。逆光モードで撮影したこともあるが、墨絵のように美しい景観である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-7-16

 下はさらに上野村側に行ったところで撮影した神流湖である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-7-16

 ところで、下久保ダム、神流湖の場合、群馬県側と埼玉県側を結ぶ橋は、ダム本体の突堤を除くと、以下の二本のみである。しかも、それぞれ吊り橋形式の簡素なものであった。


神流湖にかかる橋
出典:グーグルマップ

 一方、八ッ場ダムでは、私が数えただけでもすでに七本の橋梁、それもコンクリート構造などの巨大な橋梁を新設している。これだけとっても八ッ場ダムは異常なダムである。

 下は東側の橋の写真である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-7-16


出典:グーグルストリートビュー

 下は、西側(上野村側)にかかるもうひとつの橋である。いずれも、詳細な積算をしたわけではないが、八ッ場ダム工事現場にある七本の橋梁の数分の一、いや十分の一のコストでつくられたような橋である。しかも、これらの橋は、いずれも自然景観にほどよくマッチしている。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-7-16


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-7-16

 ところで、国土交通省は、PR誌などで八ッ場ダムができれば観光客が年間100万人来るなどと言っている。しかし、群馬県内の大部分のダム現場を視察した私たちからしてみれば、ダムができて観光客が集まったという場所はどこにもないと思える。

 この下久保ダムも例外ではなく、すばらしい景観はあるものの、ほとんどすれ違う車はないありさまである。八ッ場ダム工事でつくられたピッカピッカの巨大な橋梁、長い延長のトンネル、高規格道路などは、せいぜい草津温泉に行く乗用車やバスが利用するのがおちだ。しかも、いくら長野原町だけ立派な道路にしても、その前後は従来のままである。

つづく