メアリー・ステュアートの足跡を追って スコットランド2200km走破 ワーズワース・ロマン派詩人 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 2018年10月30日公開予定 独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁 |
スコットランド総目次へ 湖水地方1 湖水地方2 ワーズワース・ロマン派詩人 ここではイギリスの代表的なロマン派詩人とその家について紹介します。 ◆ワーズワースの概要 ウィリアム・ワーズワース(Sir William Wordsworth, 1770年4月7日 - 1850年4月23日)は、イギリスの代表的なロマン派詩人です。 湖水地方をこよなく愛し、純朴であると共に情熱を秘めた自然讃美の詩を書きました。同じくロマン派の詩人であるサミュエル・テイラー・コールリッジは親友で、最初の作品集はコールリッジとの共著でした。 多くの英国ロマン主義詩人が夭折したのに対し、彼は長命で、1843年に73歳で桂冠詩人となりました。 詩人ウィリアム・ワーズワース(壮年期の肖像画) Source:Wikimedia Commons 150周年祭のプラーク Source:Wikimedia Commons ※参考 ウィリアム・ワーズワースがライダル・マウント(Rydal Mount)で 1850年4月23日に亡くなってから150年を記念し2 000年の年にこのプラークを掲げる 生涯 ワーズワースは1770年、北西イングランドの「湖水地方」と呼ばれる風光明媚なコッカマスに、5人兄弟の第2子として誕生しました。 1778年、母の死去と共に、ワーズワースの父は彼を学校へと送りますが、法律家であった父もまた1783年に世を去ります。ワーズワースは孤独な少年時代を送りますが、自然の美しさが彼の心の慰めとなりました。 1787年、ケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジに入学します。 1790年、フランスに渡り、フランス革命の熱狂のなかで革命を支持しましたが、「革命」の名のもとに民衆が行った蛮行(九月虐殺)の惨状を見て、後年は保守的に傾いて行きました。 また、フランス人であるアネット・ヴァロンと恋に落ち、彼女はワーズワースの娘を1792年に出産しますが、ワーズワースは経済的理由などからイギリスへと一人で帰国します。 1795年、彼はサミュエル・テイラー・コールリッジと出逢い、二人は意気投合して親友となります。 1797年、妹ドロシーと共にコールリッジの住居のすぐ近くに転居します。1798年、ワーズワースとコールリッジは『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』を共同で著し、出版します。英国ロマン主義運動において、画期となる作品集でした。 1798年から1799年にかけての冬、ワーズワースはドロシーと共にドイツに旅行し、孤独と精神の圧迫にもかかわらず、後に『序曲(The Prelude)』と題される自伝的作品を書き始め、また『ルーシー詩篇』を含む多数の代表的な詩を書きます。 12月にイギリスに帰国したワーズワースは、湖水地方のグラスミア湖近くに居ダヴ・コテージ(Dove Cottage)を構えます。詩人ロバート・サウジーの住居のすぐ近くでした。ワーズワース、サウジー、コールリッジらは「湖水詩人」として知られるようになります。しかし、この時期、ワーズワースが書いた詩の主題は、主に死や別離、忍耐や悲しみに関するものでした。 1802年、アネットと娘カロリーヌに会うため、ワーズワースは妹ドロシーと共にフランスに旅行します。この年の後、幼なじみであったメアリー・ハチンソンとワーズワースは結婚し、翌年、メアリーは第一子ジョンを出産します。ドロシーは、兄と妻のもとで同居します。 1813年、ロンズデール伯爵ウィリアム・ラウザーより印紙発行人に取り立てられ、年収400ポンドの官職を得、終生の地となるライダル湖畔の丘にあるライダルマウントの広大な土地に邸宅を構え、移住しました。 ワーズワースの父は先代のロンズデール伯爵の事務弁護士を長年務めていたが報酬が未払いとなったまま両者とも死去していました。ロマン派詩人のパーシー・ビッシュ・シェリーらは、体制派となって出世し優雅な邸宅暮らしとなったワーズワースを堕落したとして批判しました。 ワーズワースにとって、詩の霊感をもたらし、彼に生きることの喜びを教えてくれる鳥は、「郭公」であった。ワーズワースは、「郭公に献げる辞」として、次のような詩をうたっています(全8スタンザのなか、前半4スタンザ)。 ライダル・マウントのワーズワースの家 Source:Wikimedia Commons ライダル・マウント、ウィリアム・ワーズワースの家 Source:Wikimedia Commons TO THE CUCKOO O BLITHE New-comer! I have heard, I hear thee and rejoice. O Cuckoo! shall I call thee Bird, Or but a wandering Voice? While I am lying on the grass Thy twofold shout I hear, From hill to hill it seems to pass, At once far off, and near. Though babbling only to the Vale, Of sunshine and of flowers, Thou bringest unto me a tale Of visionary hours. Thrice welcome, darling of the Spring! Even yet thou art to me No bird, but an invisible thing, A voice, a mystery; おお、陽気な訪問者よ! 確かに汝だ 汝の歌を聞き、わたしは喜びにみたされる おお、郭公よ! 汝が鳥であろうはずはない 彷徨える聖なる声ではないのか? みどりなす草のうえに横たわって 二重のさけび声をわたしは聞く 丘から丘へとその歌は通り過ぎる ひとたびは遠く、ひとたびは近く ただ谷間へとあどけなくも呼びかけるが 太陽の光にみち、花々のかおりにみち 汝はわたしに、かの秘密の物語をかたる 地上を離れた想像の時をもたらす みたび歓迎の言葉を、春の寵児よ! わたしにとって、汝はまさに 鳥ではなく、不可視の存在である その霊妙な声は神秘の精髄である ロマン主義の理想 この詩の表現から分かる通り、ワーズワースは実在の郭公の声を聞いて、そこからヴィジョンやイメージやミステリ(神秘)を感応しています。郭公という具体的な「鳥」の彼方に、魂に共鳴するヴィジョンを感受し、自然の崇高な奥深さにワーズワースは忘我の境地にある自己をうたうのです。 ロマン主義は、どこにもない、しかしどこかにある理想の世界や、境地を絶えず求めてやまない心情の発露として形象化されます。『黄水仙に献げる詩』や『霊魂不滅のうた(Intimation of Immortality)』においても、ワーズワースは具体的な水仙や、森や野をうたいつつ、実はその彼方にある神秘的な心情の陶酔、どこにもないが、まさに「魂の深奥」に存在する「共感の歓喜」を讃美しているのです。 グラスミアの聖オズワルド教会にあるワーズワース家の墓地の区画 Source:Wikimedia Commons つづく スコットランド総目次へ |