富士五湖、自然と文化・歴史短訪 武田信玄1 Wikipedia Koufu Takeda Jinjya, Yamanashi pref. 青山貞一・池田こみち 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年9月 |
武田 信玄 / 武田 晴信 Takeda Harunobu.jpg 出典:不明 - The Japanese book "Fūrin Kazan (風林火山:信玄・謙信、そして伝説の軍師)", NHK, 2007, パブリック・ドメイン, リンクによる 全体メニュー 武田信玄1 武田信玄2 武田信玄3 武田信玄4 武田信玄5 本文 武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる武田氏第16代当主甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信(みなもと の はるのぶ)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。 次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。 生涯 出生から甲斐守護継承まで 積翠寺にある、信玄公産湯の井戸 出典: CC 表示 3.0, リンクによる 大永元年(1521年)11月3日、甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。幼名は太郎[注釈 2]。 信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したといわれている。 また、甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力国衆が台頭していたが、信玄の曾祖父にあたる武田信昌期には守護代跡部氏を排斥[4] するなど、国衆勢力を服従させて国内統一が進んでいた。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。 傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。土屋昌続の父、金丸筑前守も傅役であったと伝わる。 武田氏の嫡男となる 大永3年(1523年)、兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる[5]。 大永5年(1525年)、父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎(武田信繁)が生まれる。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったと言う。 信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。 天文2年(1533年)、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは政略結婚であるが、晴信との仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している[3]。 元服 天文5年(1536年)3月、太郎は元服して、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名を晴信と改める[6]。官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。 この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。 初陣 信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。 武田信虎の甲斐追放 晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する[注釈 4]。しかしこの直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られた。 信濃国を平定 戦国時代の甲信とその周辺拡大 出典:CC 表示-継承 3.0, リンク 信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていた。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行った[注釈 5]。 諏訪平定 天文11年(1542年)3月、瀬沢の戦いがあった(諸説あり、瀬沢の戦い参照)。 天文11年(1542年)6月、武田晴信は諏訪氏庶流である伊那の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、桑原城の戦いで諏訪氏は和睦を申し入れ、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している[注釈 6]。 天文11年(1542年)9月25日、武田軍と高遠頼継軍が信濃国宮川で戦った(宮川の戦い)。武田方はこれを撃破して諏訪を掌握する。 上伊那平定 天文12年(1543年)、武田方はさらに信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて、自害に追い込んだ。 天文14年(1545年)4月、上伊那郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与城主である藤沢頼親を追放した(高遠合戦)。 天文13年(1544年)、父・武田信虎時代は対立していた後北条氏と和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に貸しを作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで勝利し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていく。 村上義清との戦い 今川・北条との関係が安定したことで、武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対する。 天文16年(1547年)、関東管領勢に支援された志賀城の笠原清繁を攻め、同年8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。また、領国支配においても同年には分国法である『甲州法度之次第(信玄家法)』を定めている。 天文17年(1548年)2月、晴信は北信地方に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原の戦いにおいて武田氏方は村上義清方に敗れ、宿老の板垣信方、甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原長時軍を撃破した。 松本盆地平定 天文19年(1550年)7月、晴信は松本盆地に侵攻する。これに対して仁科盛能は武田方に内通し、小笠原長時には既に抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清の下へ逃走した。こうして松本盆地は武田の支配下に入った。 砥石崩れ 天文19年(1550年)9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる敗戦を喫した。 天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城すると、武田氏軍は次第に優勢となった。 天文21年(1552年)8月、武田晴信軍は3000人の兵で仁科氏庶流小岩盛親が500人で守る小岩嶽城を攻略した。 村上義清が越後に 天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後国主の長尾景虎(後の上杉謙信)の下へ逃れた。こうして東信地方も武田家の支配下に入り、晴信は北信地方を除き信濃をほぼ平定した。 川中島の戦い 第四次川中島の戦い 出典:パブリック・ドメイン, リンクによる 川中島の戦い拡大 出典:CC 表示-継承 3.0, リンク 第一次川中島の戦い 天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎は本格的な信濃出兵を開始し、以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。 武田軍は村上義清の葛尾城を落とす。この後、武田軍は5月の更科八幡の戦いにて村上義清に敗れ葛尾城を奪還される。9月武田軍は塩田城を落とす。武田軍の先鋒は9月の布施の戦いにて撃破された。上杉謙信は信濃領内に侵攻し、荒砥城、虚空蔵山城を落とし、青柳城と苅屋原城を攻めたが武田晴信は決戦を避けた。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。 同年8月には景虎の支援を受けて大井信広(武石城主)が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。 甲相駿三国同盟 武田晴信は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の今川氏と相模の北条氏の関係改善を進めており、天文23年(1554年)には嫡男武田義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲駿同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男北条氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。 これにより、今川氏と北条氏も信玄及び今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び、甲相駿三国同盟が成立する。甲相駿三国同盟同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は長尾景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能した。 木曽・下伊那・美濃恵那平定 天文23年(1554年)、佐久郡や伊那郡・木曽郡に残されていた反武田勢力を完全に鎮圧して信濃南部を安定化させた。これと同時期に、三河・美濃・信濃の国境地帯に勢力を持つ美濃恵那郡の岩村遠山氏・苗木遠山氏の両遠山氏も信玄に臣従してきたために、美濃を支配する斎藤道三・義龍父子とも緊張関係を生じさせることになった[10]。 第二次川中島の戦い 天文24年(1555年)、武田方の善光寺別当・栗田永寿が旭山城(長野県長野市)に籠る。これに対し、長尾景虎は裾花川を挟んで対岸に葛山城を築城。 天文24年(1555年)、川中島において200日余長尾軍と対陣した。 今川義元の仲介で和睦、両軍は撤兵。和睦条件に武田方の旭山城破砕があり、破砕された。 弘治2年(1556年)、長尾家家臣の大熊朝秀が離反し、会津の蘆名盛氏と共に越後に侵攻するが撃退された。 第三次川中島の戦い 弘治3年(1557年)2月15日、信玄は葛山城を調略で落とした。 弘治3年(1557年)、晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。この戦いは、上野原の戦いともいう。 弘治3年(1557年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている[注釈 9]。 一連の戦闘の結果、北信地方の武田氏勢力は拡大した。 永禄2年(1559年)3月、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城、長野県中野市)を落とされ、飯山城(長野県飯山市)に後退した。長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになった。 永禄の飢饉 永禄2年(1559年)、永禄の飢饉が発生。甲斐国が大規模な水害に襲われる。 出家 永禄2年(1559年)2月、第三次川中島の戦いの後に出家した。 『甲斐国志』に拠れば、晴信は長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号したという。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている。 出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられているほか[14]、永禄2年(1559年)に相模後北条氏で永禄の大飢饉を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも、代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている[15]。 「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や[14]、臨済宗妙心寺派の開山である関山慧玄の一字を授かったとする説[14]、唐代の僧臨済義玄から一字を取ったとする説などがある[14]。 第四次川中島の戦い 武田信玄(左)・上杉謙信(右)一騎討像(長野市八幡原史跡公園) : 出典:長野県長野市、八幡原史跡公園(川中島古戦場)に屋外展示。以下、土台銘板より。建立者 - 長野市、長野観光協会、川中島合戦両雄一騎討銅像建立委員会寄贈者 - グリーンスタンプ株式会社製作者 - 三井金属鉱業株式会社建立日 - 1969年(昭和44年)11月2日, 日本著作権法46条/米国フェアユース, リンクによる その間も信玄は北信侵攻を続けていた。永禄4年(1561年)4月、上杉政虎(永禄4年(1561年)3月、長尾景虎より改名)が後北条氏の小田原城を包囲する(小田原城の戦い)。この間に信玄は信濃に海津城(長野県長野市松代町)を築城。割ヶ嶽城(現長野県上水内郡信濃町)を攻め落とした。参謀の原虎胤が負傷。代わって、山本勘助が参謀になる。 信玄は甲相同盟の後北条氏の要請に応じて信濃に出兵。これを受けて政虎(永禄4年(1561年)8月より輝虎に改名)は川中島の善光寺に出兵した。 永禄4年(1561年)8月、第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である副将武田信繁をはじめ重臣室住虎光、足軽大将の山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。 第四次川中島合戦で信濃侵攻は一段落し、信玄は西上野侵攻をさらに進めた。 第五次川中島の戦い 永禄7年(1564年)、上杉謙信が武田軍の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣したが、信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、にらみ合いで終わった。 |