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富士五湖、自然と文化・歴史短訪

武田信玄2 Wikipedia
Koufu Takeda Jinjya, Yamanashi pref.

青山貞一・池田こみち
 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年9月
 

武田 信玄 / 武田 晴信 Takeda Harunobu.jpg
出典:不明 - The Japanese book "Fūrin Kazan (風林火山:信玄・謙信、そして伝説の軍師)", NHK, 2007, パブリック・ドメイン, リンクによる

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凡例武田 信玄 / 武田 晴信
Takeda Harunobu.jpg

本文

西上野侵攻

 弘治3年(1557年)より、信玄は川中島の戦いと並行して西上野侵攻を開始したものの、山内上杉家の長野業正が善戦した為、当初は捗々しい結果は得られなかった。

 永禄4年(1561年)、業正が死去すると、武田軍は跡を継いだ長野業盛を攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化した][17]。これにより箕輪城は対後北条氏の最前線となる。

 元亀2年(1571年)12月、甲相同盟が回復すると後北条氏との争いが止まった。甲相同盟は天正7年(1579年)3月まで続いた。

飛騨国内紛への介入

 永禄7年(1564年)、武田氏が江馬時盛を、上杉氏が三木氏・江馬輝盛を支援して介入した。江馬輝盛は家臣団として飛騨先方衆に組み込まれている。

 永禄7年(1564年)6月、信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠を飛騨へ派遣し、これにより三木氏・江馬輝盛は劣勢となり、武田氏方と通じる。

 永禄7年(1564年)8月、上杉輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した(第五次川中島合戦)。信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。

越中国への介入

 永禄年間(1558年以降)に入ると、越中国の有力国人である椎名康胤は長尾景虎の従弟・長尾景直を養子に迎えた。同じく有力国人の神保長職は武田氏と同盟を結んで対抗した。信玄は石山本願寺の顕如と縁戚関係にあり、越中一向一揆も神保方を支援した。このため、越中の内乱は武田氏方の神保・一向一揆と上杉氏方の椎名による、いわゆる武田・上杉の代理戦争という形となった。

 永禄11年(1568年)7月、椎名康胤が武田氏の調略に応じ、上杉氏から離反した。武田氏は越中国における家臣団・越中先方衆に椎名氏を組み込んでいる。

外交方針の転換と今川・北条との戦い

 永禄3年(1560年)5月、駿河の今川義元が桶狭間の戦いにおいて、尾張国の織田信長に敗死。

 当主が今川氏真に交代したものの、今川領国では三河で松平元康(徳川家康)が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する美濃においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上、武田との関係改善を模索、信玄も木曾・東濃地域における両勢力の対立を避けたかった。こうした経緯から諏訪勝頼(後の武田勝頼)正室に信長養女が迎えられている[19]。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じた。

甲駿同盟の破綻

 永禄10年(1567年)、今川氏の甲州への塩止め(交易停止)が行われ、甲相駿三国同盟が破綻した。

 永禄10年(1567年)10月、武田家において親今川派とされた嫡男の義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件)[注釈 13]。

駿河侵攻の開始
永禄11年(1568年)12月には遠江での今川領分割を約束した三河の徳川家康と共同で駿河侵攻[注釈 14]を開始し、薩垂山で今川軍を破り( 薩埵峠の戦い)、今川館(後の駿府城)を一時占拠する。江尻城(静岡県静岡市)を築城。

信玄は駿河侵攻に際して相模北条氏康にも協調を持ちかけていたが、氏康は今川氏救援のため出兵して永禄11年(1568年)甲相同盟は解消された(甲相同盟の「武田氏の駿河侵攻と甲相同盟の破綻」参照)。北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国への圧力を加えた。さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し、永禄12年5月(1569年)に徳川家康は今川氏と和睦し、徳川家康は駿河侵攻から離脱した。

甲越和与

この間、織田信長は足利義昭を奉じて上洛していた。信玄は信長と室町幕府の第15代将軍に就いた足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、永禄12年8月(1569年)には上杉氏との和睦が成立した[22]。

さらに信玄は越相同盟に対抗するため、常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など北・東関東の反北条勢力との同盟を結んで後北条領国へ圧力を加え、永禄12年10月(1569年)には小田原城を一時包囲。撤退の際に、三増峠の戦いで北条勢を撃退した(これにより永禄12年(1569年)の第三次駿河侵攻にて、後北条氏は戦力を北条綱重の守る駿河の蒲原城に回せず、これを落とすことに成功した)[23]。こうした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じた。

永禄12年(1569年)末、信玄は再び駿河侵攻を行い、駿府を掌握した。 また、永禄年間に下野宇都宮氏の家臣益子勝宗と親交を深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗に感状を贈っている。

遠江・三河侵攻と甲相同盟の回復

永禄11年(1568年)9月、将軍・足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に信長討伐の御内書を発送する。

永禄12年(1569年)10月、碓氷峠方面から信玄による小田原城侵攻。撤退の際に、三増峠の戦いが発生。この結果、後北条家は北条氏信(綱重)率いる蒲原城に援軍を回せなくなり、蒲原城が落城した(駿河侵攻の為の二正面作戦と見れる)。

元亀元年(1570年)1月、武田勝頼らが花沢城を攻め落とし、清水袋城を築城。 この結果、海に面した地域を手に入れたので、武田水軍を編成。徳一色城(田中城)を攻め落とす。

元亀元年(1570年)8月、駿河に攻め入り、信玄は黄瀬川に本陣を置き、軍勢を分けて韮山城を攻略、攻め落とせず。

元亀元年(1570年)12月、武田家臣の秋山虎繁は徳川氏を攻めるが、織田・徳川連合軍が小田子合戦(恵那市)にて秋山虎繁を破った。

元亀2年(1571年)2月、信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたが、信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。

越中にて一向一揆と上杉謙信を戦わせる
詳細は「尻垂坂の戦い」を参照
元亀2年(1571年)4月、勝頼が加賀一向一揆の杉浦玄任に書状を送り、加賀・越中の一向一揆が協力して上杉謙信に対抗するよう求めた。

元亀3年(1572年)5月、顕如より総大将に任命された杉浦玄任率いる加賀一向一揆が、上杉方に対して挙兵した。これにより、謙信は元亀4年(1573年)8月まで、度々越中に出兵する必要があった(尻垂坂の戦い参照)。

甲相同盟を回復
詳細は「甲相同盟」を参照
元亀2年(1571年)10月3日、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去。跡を継いだ嫡男の北条氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い(氏政独自の方針との異説あり)、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を回復するに至った。

この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。

西上作戦
詳細は「西上作戦」を参照
織田家との同盟関係
尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し、外交関係が始まっており[注釈 15]、永禄8年(1565年)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立している。織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。

織田家との同盟の破綻
元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいにより権僧正という高位の僧位を元亀3年(1572年)に与えられた。

また、元亀2年には甲相同盟が回復している[注釈 16]。

遠江侵攻
元亀3年(1572年)10月3日、信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した[注釈 17]。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、山県昌景と秋山虎繁の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め入った[注釈 18]。 信長はそれを知らず5日付けで信玄に対して武田上杉間での和睦の仲介に骨を折ったとの書状を送った[26]。

信玄率いる本隊は、信長と交戦中であった浅井長政、朝倉義景らに信長への対抗を要請し、10月13日に徳川氏の諸城を1日で落とし進軍した。

仏坂の戦い
山県昌景の支隊は柿本城、井平城(小屋城、 静岡県浜松市)を落として信玄本隊と合流した(仏坂の戦い)。秋山虎繁の支隊は、11月に信長の叔母のおつやの方が治める東美濃の要衝岩村城が秋山虎繁に包囲されて軍門に下った(岩村城の戦い)。

一言坂の戦い
詳細は「一言坂の戦い」を参照
これに対して、信長は信玄と義絶するが、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に佐久間信盛、平手汎秀らと3000の兵を送る程度に止まった。

10月14日、家康は武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している(一言坂の戦い)。 信長は11月20日付けで上杉謙信に「信玄の所行、まことに前代未聞の無道といえり、侍の義理を知らず、ただ今は都鄙を顧みざるの私大、是非なき題目にて候」「永き儀絶(義絶)たるべき事もちろんに候」「未来永劫を経候といえども、再びあい通じまじく候」と書状を送っている。[27]。

二俣城の戦い

元亀3年(1572年)12月19日、武田軍は遠江の要衝である二俣城を陥落させた(二俣城の戦い)。

三方ヶ原の戦い


三方ヶ原の戦い  出典: パブリック・ドメイン, リンクによる

劣勢に追い込まれた徳川家康は浜松城に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣した。しかし、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と決戦し敗退している(三方ヶ原の戦い)。

しかしここで(信玄は)盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、朝倉義景はその後も動こうとしなかった。

野田城の戦い

信玄は軍勢の動きを止め浜名湖北岸の刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。3月6日、岩村城に秋山虎繁を入れた。

信玄の最期と遺言


信玄の最期を描いた月岡芳年の作。詞書では虫の音を聴かんとす、とある。
出典:月岡芳年 - 大日本名将鑑, パブリック・ドメイン, リンクによ


 信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈する(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検の時に喀血が再発したとも)など持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にて4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。

元亀4年(1573年)4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で、信玄は死去した[注釈 19]。享年53。臨終の地点は小山田信茂宛御宿監物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。戒名は法性院機山信玄。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。

辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。