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佐渡現地視察総合目次 黒木御所跡@ 黒木御所跡A 佐渡の歴史と三大流刑者 黒木御所跡には滞在2日目の早朝、清水寺を参拝した後に視察した。場所はグーグルマップにあるように、佐渡市役所の近くである。 生憎、黒木御所跡に到着したころから雨脚が速くなった。足元がぬかぬみのなかかでの視察となった。 ところで、黒木御所跡といえば、鎌倉幕府討幕の承久の乱にかかわったかどで佐渡への流罪となった順徳天皇が佐渡で21年間住まわれた場所である。 これは青山の私見だが、佐渡の文化レベルがひときわ高いのは、世阿弥、日蓮、順徳天皇など、いずれも日本を代表する文化人が当地に流刑となっていたことがその背景にあるものと思える。 出典:グーグルマップ 出典:グーグルマップ 道路に面する部分の黒木御所跡の入り口。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 黒木御所跡の住所:〒952-1212 新潟県佐渡市泉甲440-子 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 順徳天皇 出典:Wikimedia Commons 順徳院(じゅんとくいん。1197〜1242) 後鳥羽天皇の第3皇子で、14歳で第84代の天皇に即位しました。 後に父の後鳥羽院と一緒に企てた鎌倉幕府打倒の謀議「承久の乱」 (承久3年・1221年)に破れ、佐渡へと流されました。 佐渡へ流された後は、21年間島に住み、46歳で死去しています。 父の後鳥羽院と同じく歌の名手で歌学書「八雲御抄(やくもみし ょう)」を残しています。 出典:長岡京 百人一首講座 順徳天皇と承久の乱 父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた。父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わった。 乱後の7月21日、上皇は都を離れて佐渡へ配流となった。在島21年の後、仁治3年(1242年)9月12日に佐渡で崩御した。享年46。在島中の詠歌として、貞永元年(1232年)の『順徳院御百首』が残されている。配流後は佐渡院と称されていたが、建長元年(1249年)7月20日順徳院と諡された。 藤原定家は幕府への配慮から、『新勅撰和歌集』に順徳天皇の御製を採らなかったが、『小倉百人一首』には以下の1首を採録した。 ももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり (順徳院) 現代訳 宮中の古びた軒から下がっている忍ぶ草を見ていても、しのんでも しのびつくせないほど思い慕われてくるのは、古きよき時代のことだよ。 角田文衞は、順徳天皇に反幕府の意識が強かったのは、平家の生き残りである祖母平教子の元で育ち、周囲には平家の関係者が多かったことに一因があるのではないかと見ている。 出典:Wikipedia ◆順徳上皇の仮宮跡 1221年の承久の乱により順徳上皇は佐渡に配流となり、当時、国守が直接管理していた泉に仮宮を造営して、行宮としそこに移られました。 黒木の名称は丸木や皮附の木材で造った建物という意味と思われます。 黒木御所の四隅には上皇の御持仏として観音、弥陀、薬師、天神を祀られ日夜礼拝されたと伝えられています。 順徳院はこの黒木御所を御遷幸以来崩御までの22年間、行在所とされています。 現在の塚の四囲は、1895年に泉村川上賢吉氏の首唱により整備に着手し、1910年に竹柵を石垣に外廊に木柵を廻らしました。 1916年7月9日に昭和天皇が行啓し、その時の御手植えの松が現存しています。 1952年に泉出身の高尾頼三氏の厚意により、黒木御所跡の外柵工事並びに正面橋りょう工事費に10数万円の寄附がなされ、永久整備がほどこされて今日に至っています 出典:新潟県公式観光情報サイト にいがた観光ナビ ◆順徳上皇、在島22年の行在所 1221年の承久の乱により佐渡に配流された順徳上皇の行宮跡。樹皮つきのままの木材で造営された粗末な宮は黒木御所と呼ばれました。現在の塚は、明治期に地元の川上賢吉氏の首唱により整備されてきたものです。昭和天皇の御手植えの松をはじめ多くの松が生い茂る敷地内には、斎藤茂吉や与謝野寛らの句碑、歌碑が立っています。 ・黒木御所は順徳上皇が22年間住んだといわれる場所です。 ・七月の黒木御所祭礼では、奉納行事が行われます。 ・明治から昭和にかけて整備され、現在はきれいな日本庭園となっています。 ・百韻一種で知られる順徳天皇御製が歌碑になっています。 ・歌人、文化人の句碑や歌碑がたっています。 ・順徳条項は御所の四隅に観音・阿弥陀・薬師・天神を祀り日夜礼拝されたと伝わっています。 出典:佐渡公式観光情報サイト さど観光ナビ つづく |