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日本変革のブループリント





第三章 グローバルな小日本主義
「ミニマ・ヤポニア」(9)


佐藤清文
Seibun Satow

掲載日:2007年1月元旦


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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。



全体目次



8 司法

 大正デモクラシーには二つの目玉がありました。一つは、ご承知の通り、普通選挙法であり、もう一つは司法改革です。陪審員制が導入されたのはこの時期なのです。

 当時は検察が政権与党の手先になって動くことがしばしばだったので、それを抑制する目的がありました。

 選挙を通じた政治を近代民主主義とするならば、司法はその制度的欠点を補う機能があります。

 アレクシス・ド・トクヴィルやジョン・スチュアート・ミルが危惧した通り、この制度では多数派が権力を握りますから、少数派の主張や権利を踏みにじり、横暴なことをしかねません。

 それを一時の感情に流されず、理性を持って、少数派の擁護と多数派の行き過ぎを抑制するには、司法の機能が欠かせません。

 また、司法には、独立した権力として、行政の暴走の抑え、裁量行政の曖昧さを正す機能も持っています。シャルル・ド・モンテスキューは、『法の精神』において、政治権力を分割し、均衡と抑制による権力分立制を説きました。

 法は「事物の本性に由来する必然的な関係」であり、権力を分割しない統治形態による法からは政治的自由が保障されない以上、権力を立法・行政・司法に分ける三権分立論を唱えたのです。

 ところが、日本では、ご存知の通り、統治行為論に基づき、司法消極主義をとってきました。選挙という民意の後押しで選ばれた政治家が行うことを裁判官が裁くことはいかがなものかと考えられてきたのです。

 けれども、国会が国権の最高機関であるとしても、一切チェックされる必要はないということにはなりません。行政訴訟ともなると、ゆりかごの幼児が成人式の晴れ着を着るようになってもまだ決着がつかず、その教育費を上回る裁判費用もかかってしまいます。

 その上、多くは門前払いで、訴える権利すら認められないのです。しかし、これでは三権分立論に立脚し、他の二権を抑制しなければならない司法がそれらと癒着し、お上に逆らうなといっているも同然です。

 現在、大規模な司法改革が進んでいます。グローバリゼーションの進展と人々の権利死期の高まりにより、司法も変わりつつあります。社会的コンセンサスが事前規制から事後監視救済へと移行している以上、司法の強化は不可欠です。

 行政訴訟での門前払いの傾向も改善されつつあります。司法制度改革の骨子自体は至極もっともなものです。東北法学会のホームページに司法制度改革の内容をまとめた簡便な見取り図
があります。

 この司法改革で満足すべきではないのは言うまでもありません。

 司法は肥大した行政の裁量権を縮小・明確化させる役割を果たす必要があります。行政訴訟を門前払いをせず、司法は開かれていなければなりません。

 また、1970年代以降、環境権やプライバシー権、情報公開など新しい人権が意識され始めています。

 時代や社会の変化の速度に対応するため、多様性・グローバル性・個人性を考慮に入れた公正で誠実な解釈者として司法が求められています。

 さらに、環境問題を代表に、カオスなど古典的な意味における因果関係の立証が困難、もしくは不可能な事象に関する司法判断が求められることもあるでしょう。

 そうしたカオス性に対応する司法へ転換も不可欠です。司法は事後解決の機関では済みません。

 19世紀は政治の世紀であり、20世紀は経済の世紀でしたが、21世紀は文化の世紀です。

 司法は、従来馴染まないとされてきたこの文化における倫理に対する判断もしなければならなくなるでしょう。各領域の相互浸透が加速する21世紀は司法の時代になっていくと見られています。

 司法が一つの権利を認定する間に、これまで無数の人々の尊厳が傷つけられてきました。しかし、尊厳から権利が導き出されていくに違いありません。それを意識した司法改革をしていくべきでしょう。

つづく