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大正デモクラシーには二つの目玉がありました。一つは、ご承知の通り、普通選挙法であり、もう一つは司法改革です。陪審員制が導入されたのはこの時期なのです。 選挙を通じた政治を近代民主主義とするならば、司法はその制度的欠点を補う機能があります。 また、司法には、独立した権力として、行政の暴走の抑え、裁量行政の曖昧さを正す機能も持っています。シャルル・ド・モンテスキューは、『法の精神』において、政治権力を分割し、均衡と抑制による権力分立制を説きました。 ところが、日本では、ご存知の通り、統治行為論に基づき、司法消極主義をとってきました。選挙という民意の後押しで選ばれた政治家が行うことを裁判官が裁くことはいかがなものかと考えられてきたのです。 現在、大規模な司法改革が進んでいます。グローバリゼーションの進展と人々の権利死期の高まりにより、司法も変わりつつあります。社会的コンセンサスが事前規制から事後監視救済へと移行している以上、司法の強化は不可欠です。 この司法改革で満足すべきではないのは言うまでもありません。 司法は肥大した行政の裁量権を縮小・明確化させる役割を果たす必要があります。行政訴訟を門前払いをせず、司法は開かれていなければなりません。 また、1970年代以降、環境権やプライバシー権、情報公開など新しい人権が意識され始めています。 さらに、環境問題を代表に、カオスなど古典的な意味における因果関係の立証が困難、もしくは不可能な事象に関する司法判断が求められることもあるでしょう。 19世紀は政治の世紀であり、20世紀は経済の世紀でしたが、21世紀は文化の世紀です。 司法が一つの権利を認定する間に、これまで無数の人々の尊厳が傷つけられてきました。しかし、尊厳から権利が導き出されていくに違いありません。それを意識した司法改革をしていくべきでしょう。 |