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メアリー・ステュアートの足跡を追って
スコットランド2200km走破

フランスに嫁いだメアリー2
Mary married to France 2

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
2018年12月10日公開
独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁


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◆フランスでのメアリー

 かくしてメアリーはフランスに渡ります。

 そして10年後、15歳で1歳年下のフランソア二世と結婚しました。結婚式は有名なノートルダム寺院で挙行されました。


メアリーとフランソアが挙式を上げたフランスのノートルダム寺院
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 2.0, Link

 パリのノートルダム大聖堂(Cathedrale Notre-Dame de Paris、ノートルダム寺院とも) はゴシック建築を代表する建物であり、フランス、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会の大聖堂です。「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録されました。

 現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されています。ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指しています。

ノートルダム大聖堂
ノートルダム大聖堂 (トリップアドバイザー提供)

ノートルダム大聖堂
ノートルダム大聖堂 (トリップアドバイザー提供)

ノートルダム大聖堂
ノートルダム大聖堂 (トリップアドバイザー提供)

 メアリーはこの時点で、スコットランド、フランスそして王位継承権のあるイングランドと3国の国王になる権利をもつことになります!


フランス シャンボール城
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 3.0, Link

 シャンボール城(Chateau de Chambord)はフランスロワール=エ=シェール県のシャンボールにある城です。ロワール渓谷に点在する城のうち、最大の広さを持っています。メアリーが嫁いだフランス王フランソワ1世のために建てられました。世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」に含まれています。シャンボール城は1981年から2000年まで単独で世界遺産に登録されていました。

Chateau de Chambordの口コミ
Chateau de Chambord (トリップアドバイザー提供)

Chateau de Chambordの口コミ
Chateau de Chambord (トリップアドバイザー提供)

Chateau de Chambordの口コミ
Chateau de Chambord (トリップアドバイザー提供)

 しかし、フランソア二世はフランス国王に即位してまもなく急逝したのです。

 メアリーはフランスで宮廷生活する道もありました。しかし、故国スコットランドに戻り、敢えてスコットランドを護り続ける道を選びます。

 イングランド女王となったエリザベスは、メアリーがフランスからのスコットランドへ帰国する際、メアリーが王位継承権を放棄しない限りイングランドの海を通過させないと通告してきました。


イングランドの女王、エリザベス(一世)
Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる


イングランドの女王、エリザベス(一世)
Source: Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる

 エリザベスには本来、王位継承権が無かったが、継承した王が次々に亡くなったためイングランド女王となっていたのです。

 1561年8月19日、メアリーは、何とか無事にエジンバラの外港であるリース港に5日後に到着しました。


フランスから無事にスコットランドに帰ったメアリー・ステュアート
エジンバラ城の北側にあるリース港に着いたメアリー

 メアリー不在時、母親のマリー・ド・ギーズと義理の兄が内政を司っていましたがスコットランドの諸地域は地方王族や貴族によって無政府そして既得権益争い状態になっていました。

 さらに、この時期スコットランドでも宗教改革が起きていたのです。
 
 1560年にジョン・ノックスによってスコットランド宗教改革が始まるまでは、その状況は残っていました。カルヴァン派であるノックスは、スコットランドにおける教会はローマ教皇と決別し、カルヴァン派の信仰告白を採用すべきとしました。

 この時点で、カトリックのミサは非合法化されたのです。

 メアリー・ステュアートがフランスから帰国してスコットランド統治を開始したとき、ほとんどプロテスタント国家であり、宮廷をプロテスタントが占めていたスコットランドで、自分自身がカトリック教徒であることを認識したのです。


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