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スコットランド総目次へ* ブラックネス城1 ブラックネス城2 ブラックネス城3 ロッホ・リーヴェン城1 ロッホ・リーヴェン城2 ロッホ・リーヴェン城3 キャンベル城 キャンベル城2 ◆出典、翻訳等について 本稿では、現地調査時に入手した資料、撮影した写真以外に、概要、歴史などでは日本語、英語のWikipediaを、また写真についてはWikimedia Commonsを、さらに地図についてはグーグルマップ、ストリートビューを使用しています。その以外については逐次出典を付けています。さらに、Wikipedia の英文版など外国語版などについては、逐次池田、青山が日本語訳しています。 リンリスゴーからスターリングに向かう途中、私たちはキャンベル城(Castle Campbell)に立ち寄りました。この城は、山中の谷にあり、スコットランドのどこの城もそうであるように、城であるとともに要塞となっていました。 キャンベル城の位置 You are here の位置 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 このキャンベル城(Castle Campbell)も、スコットランド歴史協会に周遊チケットで入場することができました。スコットランド女王のメアリー・スチュアートが16世紀に訪れています。 ◆キャンベル城の概要 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S8 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S8 以下、主な出典はWikipedia です。 キャンベル城は、スコットランド中部のドルというまちにある中世の城です。キャンベル城は15世紀から19世紀にかけて「ローランド」のアーガイルの伯爵夫人、クランキャンベルの酋長の地であり、16世紀にスコットランド女王のメアリー・スチュアートが訪れています。 キャンベル氏族(Clan Campbell)は、もともとスコットランドのハイランド地方最大の氏族のひとつです。資料にキャンベルの名が最初に出てくるのは11世紀後半で、人物としては1230年代のアーチボルト・キャンベルの名が見られます。 キャンベル氏族(Clan Campbell)の紋章 Source:Wikimedia Commons 13世紀の末にはアーガイル州に勢力を持ち、イングランドとの戦争時にはロバート1世を支持していました。独立戦争の軍功によっておおいに富をえて、1380年にナイトに叙されました。 その後も着実に頭角をあらわしてゆき、1457年にコリン・キャンベルはアーガイル伯爵の地位を得ました。17世紀にはアーガイル侯アーチボルト・キャンベルなど有力者を輩出し、スコットランドにおける最大の家門の1つとなりました。 清教徒革命ではアーガイル侯はオリバー・クロムウェルを支持しましたが、王政復古後に断頭台に送られ処刑されています。 息子のアーチボルド・キャンベルは1685年にモンマス公ジェイムズ・スコットと組んで反乱を起こし(モンマスの反乱)、敗れて処刑されるも、孫のアーチボルド・キャンベルは公爵に昇格、第2代アーガイル公ジョン・キャンベルは1715年のジャコバイトの反乱鎮圧に参加して1719年にはグリニッジ公爵に叙せられ、1745年のジャコバイトの再度の反乱において第3代アーガイル公アーチボルド・キャンベルは政府軍に参戦しました。 キャンベル城は当初ステュアート家のものでしたが、ステュアート家と婚姻関係を結んで下賜され、1489年にキャンベル城と名を改めました。清教徒革命でモントローズ侯ジェイムズ・グラハムはキャンベル城を攻めたが落とせず、逆に捕らえられ処刑されました。王政復古後キャンベル城は燃やされたが、その後再建されキャンベル氏族の象徴となりました。1948年、スコットランド歴史協会によって国有化されています。 キャンベル城2につづきます スコットランド総目次へ* |