メアリー・ステュアートの足跡を追って スコットランド2200km走破 セント・アンドリューズ Saint Andrews 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 2018年12月10日公開 独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁 |
スコットランド総目次へ* セント・アンドリューズ St.アンドリューズ修道院1 St.アンドリューズ修道院2 St.アンドリューズ修道院3 St.アンドリューズ修道院4 St.アンドリューズ修道院5 St.アンドリューズ修道院6 St.アンドリューズ城1 St.アンドリューズ城2 St.アンドリューズ城3 St.アンドリューズ城4 St.アンドリューズ城5 St.アンドリュースの他の教会 St.アンドリューズ大学 ◆出典、翻訳等について 本稿では、現地調査時に入手した資料、撮影した写真以外に、概要、歴史などでは日本語、英語のWikipediaを、また写真についてはWikimedia Commonsを、さらに地図についてはグーグルマップ、ストリートビューを使用しています。その以外については逐次出典を付けています。さらに、Wikipedia の英文版など外国語版などについては、逐次池田、青山が日本語訳しています。 滞在5日目(リンリスゴー3泊、スターリング1泊)、私たちは滞在先のスターリング大学のゲストハウスから車でスコットランドの東海岸にある世界的に有名なセント・アンドリュースに向かいました。セントアンドリュースには修道院、城、チャペルそれに世界的に有名なゴルフの発祥地があります。 道のりは下図のように約1時20分です。 出典:グーグルマップ この日は素晴らしい好天です。 ◆セント・アンドリュースの概要 出典:グーグルマップ セント・アンドリューズ(St Andrews)の街並み 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 ◆ゴルフの発祥の地としてのセント・アンドリューズ(St Andrews) セント・アンドリューズ(St Andrews)は、スコットランドのファイフにある北海に面する町であり、ゴルフの発祥の地として知られています。 名前は聖アンデレにちなんで命名されました。ゴルフの権威であるR&Aゴルフクラブと美しいゴルフコースのセント・アンドリューズ・リンクスがあるため、セント・アンドリューズは「ゴルフの聖地」と呼ばれています。 5年に1度、四大メジャーで最古の歴史を誇るゴルフ大会・全英オープンがセント・アンドリューズ・リンクスのうちの最も由緒ある「オールド・コース」(Old Course)を舞台に開かれている(テレビ中継では聖地と呼ばれています)。 最古の歴史を誇るゴルフ大会・全英オープンがセント・アンドリューズ・リンクスのうちの最も由緒ある「オールド・コース」(Old Course)」で開催される Source:Wikimedia Commons By paul birrell, CC BY-SA 2.0, Link また、スコットランド最古の大学であるセント・アンドリューズ大学が置かれています。 セント・アンドリューズの位置 Source:グーグルマップ ・行政 国 イギリスの旗 イギリス 連合王国 スコットランド 市 セント・アンドリューズ ・人口 人口 (2008年3月現在) 市域 16,596人 ◆セント・アンドリューズの歴史 ピクト人の本拠地がおそらくセント・アンドリューズの場所にあったといいます。言い伝えによると、ケンノウェイの守護聖人ケネスによってここに6世紀にカルディー修道院が建てられました。 その場所は747年まで同時期の記録中に実際に証明されていませんでした。 アイルランドの年代記がセリングモナイドの聖職者チュアタランの死を記録してあったことから判明し、聖母に捧げられた小さな教会が1860年にKirkheughで発見されました。 12世紀と13世紀、キルリーモントという名かまたはマックロスという名の定住が行われました。別の言い伝えでは、アカイアのパトラス司教聖レグルス(またはリアゲイル)が聖アンデレの聖遺物を携えてここへやってきたといいます。 ピクト人の王アンガス・マクファーガスはレグルスにボアーズ・ライクという広い土地を与えました。そこは現在のボアヒル近郊であるといい、その名が変わってセント・アンドルーズとなりました。 908年にピクト人とスコットランド教会が1つになり、セント・アンドリューズは9世紀に司教座の町となりました。司教座の首位はダンケルドから移されたもので、セント・アンドリューズ司教はすなわち高位司教で知られていました。 15世紀半ばには大司教座に昇格した町は1124年にロイヤル・バラ(Royal Burgh)となりました。 16世紀、フォース湾北部の重要港の一つの働きをし、伝えられるところによれば14,000人の人口がありました。しかし暴力的なスコットランド宗教改革とイングランド内戦の後、町は破壊されました。ダニエル・デフォーは家々が荒廃し、港が海に浸食され二度と回復されなかったとのべています。しかし、わずかに交易が改良されていました。 「セント・アンドリューズ修道院」につづきます スコットランド総目次へ* |