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北イタリア紀行

ヴェネツィア

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komchi Ikeda

2006年4月14日
 転載禁


ブラチスラバ (1)〜(5) ウィーン  ミラノ コモ  セベソ ベニス


■8日目(金

 
今日は最終日。

 早朝に起きる。6時55分発のミラノ中央駅発のユーロスター、ヴェネツィア行きに乗るためだ。

 ホテルからミラノ中央駅に着くと、トリノからミラノ中央駅経由でヴェネツィアに行くはずのユーロスターが30分遅れと電光表示されている。ゲェー。

 さんざん待たされたあげく結局、この列車は到着せず。

 次の列車、IR(インターリージョンの略)でヴェネツィアに行くことになった。ミラノ駅のインフォメーションに行くが、まったく素っ気ない無責任な返事しか帰ってこない。せっかくお金を出して予約したユーロスターが乗れなくなった。にもかかわらず、「次の電車に乗れ」のひとことだけ。


ミラノ発ベニス行きの列車乗り場

 ミラノ発7時40分のヴェネツィアに行きのIR列車に乗る。

 本来、3時間弱で到着するはず。なのに、3時間30分以上もかかって11時すぎ、やっとヴェネツィアのサンタルチア駅に到着。サンタルチアは日本人にもなじみ深い響きだ。英語的に言えば、セント・ルシアと言うことになる。


サンタルチア駅到着直前に撮影したベニス本島。海面すれすれだ。

 駅でトイレに行く。例によってお金をとられる。後になってわかることだが、ヴェネツィア本島にはいわゆる公衆トイレはほとんど、いやまったくないと思った方がよい。

 憶測だが、観光客はどこかのカフェかレストランなどに入らないと用が足せないようになっている、のではないかと思う。ヴェネツィアはEU一物価が高いと聞いたことがあるが、観光収入に依存せざるを得ないまちとしていかしかたあるまい。そして駅前に出る。

 驚いたことに駅の真ん前に運河が流れている。

 ※地域の全体地図はここをクリックして下さい!

 ※本島及び直近の島を含めた地図はここをクリック!

 ヴェネツィアは下図のように列車が乗り入れている本島とムラノ島はじめ多くの島々から構成されている。




 駅から出るとそこはもう、いわゆるヴェネツィア。

 最初の運河を渡ると狭く、くねった路地が迷路のように続く。その両側に土産物屋やレストラン、カフェ、バーが所狭しと軒を連ねる。多くの欧州の町を歩いてきたが、やはりここは別世界、格別である。


駅前に広がる大運河サンタルチア駅の真ん前。

 何しろ下の写真のような迷路、超狭い路地が続く。


こんなに狭い路地も

 ここで歴史の勉強。
 
 最初に、イタリア最古の都市国家、ヴェネツィアの誕生と衰退について振り返ってみよう。アドリア海の都市国家、それも自治都市国家としては、クロアチアにあるアドリア海の真珠ドブロブニクが有名だが、ヴェネツィアの歴史はさらに古い。両方ともアドリア海にせせり出ている点でも共通性がある。ただ、両方ともほぼ同じ場所、すなわちバルカン半島の付け根と途中にあることは何かを暗示するものがある。

ヴェネツィア共和国

 ヴェネツィアを中心にして発展した海洋国家で、強大な海軍力と交易による富を背景に「アドリア海の女王」として君臨した。

 1000年もの歴史を誇ったが1797年にナポレオンのフランス帝国(第一帝政)により崩壊した。

 1815年にナポレオンが失脚し、ヴェネツィアは解放されたが、大国主導のウィーン会議によってイタリア最古の都市国家は、独立を失った。

 最盛期の領土は、現在のイタリア共和国ヴェネト州フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ベルガモをはじめイストリア半島アドリア海沿岸の都市、キプロス島など地中海の広範囲に及んでいた。

 国家元首はイタリア語の現地での方言で「ドージェ」(原義は「指導者」。公爵と同じ語源。)と言う。就任式には指輪を海に落とす慣習があった。

出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

 次に、ベニスの歴史を概括しよう。ここにもナポレオンが出てくる。


 ヴェネツィアの土地は、大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によって作られた湿地帯である。

 元々はただの湿地帯だったが、6世紀頃に東方からゲルマン系諸族やフン族がイタリア本土のヴェネト地方に侵入してきたため、住民がこの湿地帯へと避難してくることから歴史が始まる。

 この時避難してきた先が現在の「トルッチェロ島」である。足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることが出来ず、避難した人々はここに暮らし続けるようになる。

 アドリア海沿岸地域は元々ビザンティン帝国の支配下にあるため、ヴェネツィアも同じように支配されていたが、697年、初代総督を選出して独自の共和制統治が始まる。

 9世紀はじめ、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣、そのため、トルッチェロにいた人々は更なる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになった。このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」である。

 810年にビザンティン帝国とフランク王国との間で結ばれた条約で、ヴェネツィアはビザンティン帝国に属するが、フランク王国との交易権ももつこととなり貿易都市への布石が置かれた。

 このころ、ヨーロッパ各国では、その国の存在をアピールする目的でその国の守護聖人を求める風潮にあった。

 ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、福音書著者聖マルコの遺骸がエジプトのアレキサンドリアにあり、イスラム教徒に奪われる恐れがあることを聞きつけ、828年、それを奪い取りヴェネツィアに運んだ。この時よりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになった。

 10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大した。

 さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めていった。ジェノヴァなどの同じイタリアの貿易都市とは違い、都市の周辺海域が大国・ビザンティン帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となった。

 11世紀に、弱体化したビザンティン帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償としてビザンティン内での貿易特権を得た。その後の十字軍遠征と、それに伴うアジアとの貿易との拡大によって、ヴェネツィアは勢力を拡大した。

 1204年、第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊はビザンティン帝国首都のコンスタンティノープルを攻略、援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となった。

 また、おなじ13世紀に、マルコ・ポーロがヴェネツィアから中国へ向けて旅立ちをしている。

 15世紀になるとオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、勢力にもかげりが見えてきた。

 1797年、ヴェネツィアはナポレオン・ボナパルトに侵略され、1805年にナポレオン支配下のイタリア王国に帰属、1815年にはオーストリアの支配下に置かれるようになった。

 1848年に共和国は一時復活したが1849年にオーストリアの攻撃により降伏した。

 1866年に普墺戦争がはじまると、イタリア王国はこれを第3次イタリア統一戦争としてオーストリアに宣戦布告し、この結果ヴェネツィアとヴェネト地方はイタリア王国に編入された。

 1987年、世界遺産(文化遺産)に『ヴェネツィアとその潟』として登録された。

出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』


 ついでにマルコポーロについても。


マルコポーロ

 1295年に始まったヴェネツィアとジェノヴァの海戦で1298年捕虜となったピサ出身のルスティケロ(冒険物語の作者で、『アーサー王の円卓騎士物語』(またはアーサー王伝説)などを翻訳)と獄中で同じ牢獄にいたことで知り合い、『東方見聞録』という名でよく知られた旅行記『世界の記述』を口述したという。

  その写本の記事はヨーロッパの人々には信じがたい壮大な内容を含んでいたため、マルコ・ポーロは嘘つき呼ばわりされ、アジアで見た物を数えるときいつも『100万』と言ったことから『100万のマルコ』とあだ名されたという。

  しかし、彼の伝えたアジアの富に関する記事はよく読まれて旅行記は内容を書き加えられながら写本を重ね、後の大航海時代に大きな影響を与えたと言われる。

  東方見聞録は、中世におけるヨーロッパ人のアジア感を一変させたといえる。彼の時代以降、世界地図として一般的だったTO図は激減し、社会的変化を呼び起こし、ルネサンスにも影響を残すことになった。

彼は元に滞在中、アジア探索を数多く行ったが、その中の一つに当時ヨーロッパで流布されていた、キリスト教国家プレスター・ジョンの発見を目指していたとも言われている。

 最終的には発見される事はなかったが、彼はプレスター・ジョンがアジアのどこかに存在すると確信していたと言う。

出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』



 最初の印象は、地球温暖化で先進国で最初の水没被害はここだ、と言うことである。

 それにつけてもヴェネツィアのまちは、島全体がまさに海水面すれすれに立地している。

 今後、地球温暖化が進み海水面が上昇すれば、まっさきにまち全体が水没の危機に瀕するのではという話しだが、これを見るとまさに事実であると納得、実感する。

 アムステルダムでもそれを実感したが、こちらの方がはるかに現実味がある。

 小さな運河が町の中を縦横無尽に走っている様は、オランダのアムステルダムによく似ている。しかし、ヴェネツィアは、まち全体がせいぜい数階建て、アムステルダムのような高い建築物、ホテルやビルはない。高い建築物は、寺院、教会の塔くらいである。


こんな運河が島の中に無数近くあり、水上タクシーも利用できる。

 途中、ヴェネツィアの島の中心にある大理石造りの白い橋、リアルト橋にであう。橋の上にはさまざまなお土産屋さんがいて見ているだけで楽しい。この橋から見る運河はとくに素晴らしい。


リアルト橋から撮った運河


リアルト橋を降りるとサンマルコ寺院はすぐそば

 世界的に有名な寺院、サンマルコ寺院(聖マルコ寺院)、広場を目指す。しかし、なかなか到着しない。やっと到着したときはお昼の12時を過ぎていた。ききしにまさるすばらしい建築物と広場である。何百羽と言う鳩もいる。世界中から集まった観光客もわんさかいる。


サンマルコ寺院とサンマルコ広場

 
サンマルコ広場にある鐘楼は高さが実に99メートルもある。この塔の入口にはヴェネツィアの守り神とされる翼の生えたライオンがある。このサンマルコ寺院とそれに接する政庁舎、公爵館などはイタリアを代表する第一級の建物であり、世界遺産(文化遺産)だ。
 
 サンマルコ寺院は1094年に建立されている。当初、11世紀のビザンティン様式を色濃く残したギリシア十字架で建立された。しかし、その後、ベニスの発展とともに礼拝室やナルテックスが付け加えられた。

 この時点で、寺院の建立当時のおもかげは屋根の円蓋のみとなっている。さらに当時の財力を忍ばせるかのように、あらゆる装飾が金で飾られている。イタリアでもこれほど豪華で華麗な建物はないだろう。

 サンマルコ寺院にある4頭の青銅製の馬は、トルコのイスタンブール(コンスタンチノープル)に十字軍が遠征した際、戦利品としてから1204年に持ち帰ったとされている。ただし見れるのはレプリカ。


サンマルコ広場のはと




 何でもこのサンマルコ広場は、かのナポレオンをして、「世界で最も美しい広場」といわせしめたそうだ。

 以下は、帰国後池田さんがNHKの「世界ふれあい街あるき」のヴェネツィアを見た上でのコメントだ。


 NHKは3月末と4月初めの2回に分けて、ヴェネツィアの街を取り上げていた。ゆっくりと街の中を歩きながら、歴史、文化、暮らしを通じて街をいろいろな角度から探訪する楽しい番組だ。私たちは半日だけの駆け足のヴェネツィア訪問だったが、この番組を通じて改めてヴェネツィアの特異性とそこに住む人々のヴェネツィアに対する思い入れがわかり、とても印象に残った。

 ヴェネツィア本島は緑はまったくと言って良い程なく、路地と水路は狭く入り組んでいてわかりずらく、建物は古く、わずかな水位の上昇で水浸しになったり、夏場には水がよどんで悪臭が漂うこともあるというヴェネツィア。

 だが、そこに暮らす人々は1千年の歴史が育んできたヴェネツィアならではの風景、佇まい、仕事、そして食・住のすべてをこよなく愛し、楽しんでいる。そして、それを守り続けるために少々の不便や苦労は厭わない覚悟と気概が感じられた。世界にひとつしかないヴェネツィアという街をみんなで大切に守っているのである。


ベネチア本島の魚やさん

 画一化が進む日本の街を思い出すとき、経済的な発展と利便性、地域の個性、歴史文化、人々の暮らしをどうバランスさせていけばいいのか、昨今の「教育基本法」を巡る議論ではないが、街や地域への「愛情」を育て、街づくりに活かすには・・・という課題に直面する。

 ともあれ、とかく買い物にばかり走りがちな日本人の海外旅行だが、ゆっくりゆったり街歩き、市民とのふれあいを通じて街や人そのものを感じる旅をするゆとりとセンスをもちたいものである。

 サンマルコ広場、ドッカーレ宮殿などを後にして、昼食のレストラン(イタリア語では、リストランテ ristorante)を探す。これがなかなか難しい。全くひとが入っていないレストランと満員のレストランのいずれかだからだ。当然、後者に入りたいが、なかなかいいレストランが見つからない。

 やっとのことでちょっと気の利いたイカスミのパスタを出す店に入る。小さな何もない広場に面したリストランテ、ここのパスタは絶品だったが、サラダの量が何しろ多くて食べきれない。

 昼食後、迷路のような島の路地を気ままに散歩する。友人に聞いたら、夏はかなり水が臭うそうだ。おそらく入り組んだ小水路、運河は水がなかなか入れ替わらないから、水質が悪化しアオコが発生したり、富栄養化もおこるだろう。この時期はまったく臭いはなく、快適だ。

 右往左往しながら、やっとの事で、サンタルチア駅前に戻る。途中、ゴンドラに出くわす。ゴンドラは一時間1万円が目安。


狭い水路ですれ違うゴンドラ。

 サンタルチア駅前についたが、帰りのユーロスターの列車の予約時間まで数時間あるので、駅前にある水上バスにのろう! ということになった。この水上バスが大正解。わずか5ユーロで1時間乗れる。

 そこで水上バスでヴェネツィア本島をみることにした。下の写真にあるように、海側から見るサンマルコ寺院、ドッカーレ宮殿もすばらしい。


海からみサンマルコ寺院、ドッカーレ宮殿
 
 海からのきわめつけは、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島(Isola di Sant Giorgio Maggiore)のサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会だ。1566年より建設。17世紀初めに完成している。鐘楼は18世紀に付け加えられた。その高さ75mとサンマルコ寺院の大鐘楼よりいくらか低い。


 
サン・ジョルジョ・マッジョーレ島の寺院

 
このサン・ジョルジョ・マッジョーレ島で一端下船し、寺院や島をあるく



サン・ジョルジョ・マッジョーレ島の寺院


サン・ジョルジョ・マッジョーレ島にて


島には小さな灯台も



 
そうこうしているうちに列車の出発時間が近づき、水上バスで再度サンタルチア駅まで戻る。下の写真は、夕日にはえるサンマルコ寺院の大鐘楼である。逆光モードで撮影。



 今回は時間がなく行けなかったが、ヴェネチアと言えばヴェネチア・ガラス、その本場が本島の北側にあるムラノ島にある。




ムラノ島とムラノガラス

 ムラノの職人は、交易支配の時代に質の高い原材料を安価で入手できる利点に恵まれ、芸術品ばかりか、グラスや大小様々なガラスビン、ガラス板や鏡、メガネのレンズ、ランプなど、透明度を誇る日用品の製造にも優れた技術を発揮しました。

 ヴェネチアアンガラスを“ムラノガラス”とも呼びますが、ムラノとはヴェネチア本島から北東1.5kmにあるヴェネチアの小さな島々の1つです。このムラノ島にガラス製造工房が1箇所に集められ、ベネチアグラスの豊かな色彩と職人の確かな技術は、伝統的ガラス芸術としても受け継がれています。

 それは高温処理の作業による火災を防ぐ名目と、技術・製法の秘密を守るため、ヴェネチア本土に広がる工房がムラノ島に集められたと伝えられています。

http://www.jewelryplanet.co.jp/items.html


 かくして私たちの欧州奮闘旅行は、これで幕を閉じる。ユーロスターでミラノに帰る。帰りはやたら早く2時間30分でミラノ駅についた。車中、世界各国からのお客がそれぞれの言葉で携帯電話で話しており、騒々しくてまいった。

 翌日、来たときと逆のコース、すなわちミラノ空港→ウィーン空港→成田空港の経路で無事帰国した。

 
※ 学術調査報告、帰国報告は、
   本ブログには掲載していません。

各ブログへのリンク
ブラチスラバ (1)〜(5) ウィーン  ミラノ コモ  セベソ ベニス

     
      ____
       ミラノ空港出発ロビーの広告。いずれも奇抜。


  •  
    参考:イタリアの世界遺産
        
        
          

    • ヴァルカモニカの岩絵群 - (1979年、文化遺産)
    • レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院 - (1980年、文化遺産)
    • ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 - (1980年、文化遺産)
    • フィレンツェ歴史地区 - (1982年、文化遺産)
    • ヴェネツィアとその潟 - (1987年、文化遺産)
    • ピサのドゥオモ広場 - (1987年、文化遺産)
    • サン・ジミニャーノ歴史地区 - (1990年、文化遺産)
    • マテーラの洞窟住居 - (1993年、文化遺産)
    • ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオ様式の邸宅群 - (1994年、文化遺産)
    • シエナ歴史地区 - (1995年、文化遺産)
    • ナポリ歴史地区 - (1995年、文化遺産)
    • クレスピ・ダッダ - (1995年、文化遺産)
    • フェッラーラ:ルネサンス期の市街とポー川デルタ地帯 - (1995年、文化遺産)
    • デル・モンテ城 - (1996年、文化遺産)
    • アルベロベッロのトゥルッリ - (1996年、文化遺産)
    • ラヴェンナの初期キリスト教建築物群 - (1996年、文化遺産)
    • ピエンツァ市街の歴史地区 - (1996年、文化遺産)
    • カゼルタの18世紀の王宮と公園、ヴァンヴィテッリの水道橋とサン・レウチョ邸宅群 - (1997年、文化遺産)
    • サヴォイア王家の王宮群 - (1997年、文化遺産)
    • パドヴァの植物園(オルト・ボタニ) - (1997年、文化遺産)
    • ポルトヴェーネレ、チンクエ・テッレと小島群(パルマリア、ティーノとティネット島) - (1997年、文化遺産)
    • モデナの大聖堂、トッレ・チヴィカとグランデ広場 - (1997年、文化遺産)
    • ポンペイ、エルコラーノおよびトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域 - (1997年、文化遺産)
    • アマルフィ海岸 - (1997年、文化遺産)
    • アグリジェントの遺跡地域 - (1997年、文化遺産)
    • ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ - (1997年、文化遺産)
    • スー・ヌラージ・ディ・バルーミニ - (1997年、文化遺産)
    • アクイレイアの遺跡地域と総主教聖堂バシリカ - (1998年、文化遺産)
    • ウルビーノ歴史地区 - (1998年、文化遺産)
    • パエストゥムとヴェリアの古代遺跡群を含むチレントとディアノ渓谷国立公園とパドゥーラのカルトジオ修道院 - (1998年、文化遺産)
    • ティボリのハドリアヌス帝別荘 - (1999年、文化遺産)
    • アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群 - (2000年、文化遺産)
    • ヴェローナ市街 - (2000年、文化遺産)
    • エオリア諸島 - (2000年、自然遺産)
    • ティボリのデステ家別荘 - (2001年、文化遺産)
    • ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々(シチリア島南東部) - (2002年、文化遺産)
    • ピエモンテとロンバルディアのサクリ・モンティ - (2003年、文化遺産)
    • チェルヴェテリとタルクィニアのエトルリア墓地遺跡群 - (2004年、文化遺産)
    • ヴァル・ドルチャ - (2004年、文化遺産)
    • シラクーザとパンタリーカの断崖の墳墓群 - (2005年)

     出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』