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「南京大虐殺」


その背景と経過を

NHKスペシャルより探る


B蒋介石と中国の戦略

青山貞一

2006年8月22日

独立系メディア E-wave Tokyo

@はじめに
A盧溝橋事件の勃発と陸軍作戦本部の突出
B蒋介石と中国の戦略
C第二次上海事変に備える蒋介石軍の実態
D顧問団助言の作戦とその展開
E上海攻防戦と日本への経済制裁の失敗
F現地軍の暴走と参謀本部の追認による南京への進軍
G蒋介石のソ連援軍要請と日本軍の南京郊外での行状
H南京陥落と陸戦法規適用の判断


◆蒋介石と中国側の戦略


 一方、中国側はどうだったのか。

 蒋介石率いる国民党軍は欧米諸国の支援を受け長期戦に持ち込もうとする。実際、蒋介石は当初、日本軍への積極的対応はしなかった。その理由は、中国における軍閥や共産党とのたたかいにあった。


中国国民党の蒋介石

◆蒋介石

1887年に現在の中国の浙江省奉化県で塩商人の肇聰と王采玉の間に生まれる。成人後は日本の陸軍士官学校へ留学し、その後辛亥革命に関わったことで孫文からの信頼を得、後に中華民国の主席となる。永く中国共産党と敵対関係にあったものの、日中戦争時には毛沢東と一時的に協力し合い(第二次国共合作)、アメリカやソ連の協力も得て日中戦争を戦い抜いた。しかしながら、1945年からは再び中国共産党との間で国共内戦が勃発、1949年に敗北し台湾に逃れる。その後1950年に総統に就任し、1975年に死去するまで総統の地位にあった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 最近になって台湾においても日中戦争当時の情報が公開されている。その中には、欧米の蒋介石の日記もある。

 欧米の大国に働きかけ、この日本とのたたかいを有利に展開しようとした蒋介石の国際戦略がこの日記から読み取れる。

 蒋介石は、長期戦に備えドイツ、旧ソ連、米国など欧米諸国に、経済制裁、武器援助などさまざまな支援を求めていった。蒋介石によれば「目的は多くの国々に日本への経済制裁をとらせることにある」とされた。


蒋介石

 また最近になって公開された蒋介石の日記には、蒋介石が日中戦争にどういう方針でで臨もうとしていたのか、それを示す資料が台湾(国民党党史館保管)に保管されていた。公開されたのは、原簿ではなくその複写版である。

 
そこでは満州事件のときとは異なり、蒋介石の強い決意が記されていた。

 たとえば、7月8日の盧溝橋事件翌日の日記では「日本の侵略者は盧溝橋で挑発行為に出た。我が軍の準備が完了していないと見て、屈服させるつもりか。今こそ応戦の決心をすべき時だ」と書いている。
 

蒋介石の日記にある「応戦」と言う言葉
 

 蒋介石の元待従秘書、何志浩氏(104歳)は、蒋介石の下、必ず国土を取り戻せると思ったという。


蒋介石の元待従秘書、何志浩氏(104歳)

 さらに、蒋介石が毎日、日記に刻んだ「雪恥」という二文字は、日本に雪辱するという意味である。


蒋介石の日記によく出てくる「雪恥」と言う言葉

 蒋介石は、盧溝橋事件の前年、軍閥との闘いに勝利をおさめ、共産党とも手を結び、国家体制の整備を押し進めつつあった。


つづく