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「南京大虐殺」


その背景と経過を

NHKスペシャルより探る


G蒋介石のソ連援軍要請と

日本軍の南京郊外での行状


青山貞一

2006年8月22日

独立系メディア E-wave Tokyo

(1)はじめに
(2)盧溝橋事件の勃発と陸軍作戦本部の突出
(3)蒋介石と中国の戦略
(4)第二次上海事変に備える蒋介石軍の実態
(5)顧問団助言の作戦とその展開
(6)上海攻防戦と日本への経済制裁の失敗
(7)現地軍の暴走と参謀本部の追認による南京への進軍

(8)蒋介石のソ連援軍要請と日本軍の南京郊外での行状
(9)南京陥落と陸戦法規適用の判断

蒋介石のソ連援軍要請と日本軍の南京郊外での行状
 
 当時の中国の首都、南京。日本軍が迫るなか、蒋介石の側近や軍人の多くは、南京からの撤退を進言する。しかし蒋介石は、南京防衛戦を決断。国際社会からの新たな支援に期待をつなぐ。

 蒋介石の日記「11月30日、「南京を固守しながら挽回の方策を講じたい。」

 蒋介石の新たな挽回の方策、それはソビエトに参戦を促すことであった。このころソビエト軍の高官が語った言葉が、蒋介石宛の電文のなかに、残されている。


モスクワ発南京あて暗号電文

 「中国の存亡にかかわるとき、我がソビエトは出兵し、けっして座視しない。」


座視しない

 ソビエトは当時、日本軍が駐留する満州国と国境を接していた。蒋介石と同様、日本に脅威を抱いていたスターリン。蒋介石の要望に応え中国に武器の輸出を行っていた。スターリンは中国に宛てた電文のなかでこう約束している。

 「兵器の供給は一億中国ドルまで増やすことができる。戦闘機200機、戦車200両も供給することが出来る。」

 11月30日、蒋介石はスターリンに電報を送り、一刻も早い決断を求めた。

 「中国はやむなく南京に後退した。今はただ、閣下の出兵の決断を望む」
 
 蒋介石は南京郊外の農村に、400を超える陣地を築き、防衛ラインをひいた。

 南京から15kmの郊外、淳化鎮、12月上旬、この村で激しい戦闘が始まった。そのとき何が起こったか。中国では、大学など研究機関によって、実態調査が進められている。


南京師範大学教授 張連紅さん

◆南京大虐殺の生存者の証言、大学生が調査へ

  南京の大学生が、旧日本軍による南京大虐殺の証言調査を行うことがわかった。南京大学、南京航空航天大学、河海大学、南京師範大学からの志願者が、南京市江寧、栖霞、雨花台、浦口などの行政村30カ所余りで20日間にわたって調査を進める。

  「人民網日本語版」2004年7月5日」

 ※参考:南京大虐殺史料集」全28巻刊行

 南京師範大学の張連紅さんはこの八年南京周辺の被害を調べ、報告書にまとめてきた。現在は南京防衛の砦とされた農村での聞き取り調査に力を注いでいる。村人の証言は録音した上で文字に起こし、再度本人に内容を確認して行く。


日本兵はあなたの家で何をしましたか?


胸を刀で刺されて死んでいました


父はその木に縛り付けられて殺されていました

 南京師範大学の調査では、南京周辺で日本軍による農民の殺害、強姦、放火などの被害が証言として記録されている。

 南京郊外で攻防が続いていた12月5日、蒋介石はソビエトから出兵についての回答を受け取った。


12月5日 モスクワからの電報

 「ソビエトは出兵するが、最高会議の承認が必要である。会議は遅くとも2ヶ月後には開催する。」

 即時出兵は出来ないとするソビエトの回答。

 この時期スターリンは、ヨーロッパで勢力を拡大しつつあったドイツ軍の動向に神経をとがらせていた。しかし、蒋介石は、なおもソビエトに望みをかけていた。

 翌12月6日、蒋介石は中国軍司令官に電文を発する。曰く「一月たてば、必ず大きく国際形勢は変わる。交戦して南京城を守り、戦局の転換を図る」と。


蒋介石 軍司令官あて電報

 12月7日、蒋介石は南京防衛軍およそ10万人を残し、自らは戦線の立て直しをはかるため、南京を離れる。

 相前後してドイツ軍事顧問団や国民政府の幹部も南京城の外に逃れていった。


旧国民政府

国民政府

 1925年の広州国民政府樹立から、1948年に中華民国憲法に基づく政府が樹立(憲政の開始)されるまでの間、「訓政時期約法」に基いて国民党が運営していた中央政府の機構及びに最高行政機関を指す。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

つづく