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「731部隊」
今までの記録(1)

・731部隊の概要 ・石井四郎 ・731部隊の沿革 ・防疫活動

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
2017年9月30日公開
独立系メディア 
E-Wave Tokyo 
無断転載禁


1) ・731部隊の概要 ・石井四郎 ・731部隊の沿革 ・防疫活動
2)・生物兵器開発と実戦的使用 ・元部員尋問 ・金子順一論文
3)・ペスト菌攻撃事例(寧波, 満州新京,常徳他) ・被害者の証言
4)・人体実験  ・実験材料マルタ ・細菌学的実験 ・生理学的実験
5)・細菌爆弾の効果測定 ・性病実験と女性マルタ
6)・証拠隠滅とマルタの処理
7)・戦後  ・朝鮮戦争における細菌戦
8)・ハバロフスク裁判   ・日本国への賠償請求
9)・旧陸軍軍医学校跡地で発見された人骨との関連
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 ここでは、2017年8月にNHKから放映された「731部隊の真実」ドキュメント以前の731部隊についての記録、記述を整理しています。出典は主にWikipediaの731部隊石井 四郎、テレビ朝日ザ・スクープ(731部隊・細菌戦の真実)はじめWikimedia、Tripadvisorの写真などです。

 そのうえで、NHK「731部隊の真実」ドキュメントにより新たに明らかになったことについて紹介したいと第二編で考えます。

◆731部隊の概要

 731部隊は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつを意味します。正式名称は関東軍防疫給水部本部でああり、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略です。

 七三一部隊跡は中国語では侵華日軍七三一部隊遺址となります。中国での正式住所は、黒竜江省哈爾賓(ハルビン)市平房区新疆大街25号となります。以下はグーグルマップで検索した現地の位置です。


ハルビン市がある中国黒竜江省の位置
出典:Wikimedia Commons


ハルビン市がある中国黒竜江省の位置
出典:Wikimedia Commons

 下は満州国の鉄道路線とハルビンの位置。


満州国の鉄道路線とハルビンの位置
出典:Wikipediaの地図より青山貞一が作成


 正式な住所は、黒龍江省哈爾浜市平房区新疆大街21号


731部隊関連施設の位置 出典:ゴーグルマップ


731部隊関連施設の位置 出典:ゴーグルマップ(衛星写真)

 満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもありました[1]。そのために人体実験[2][3]や、生物兵器の実戦的使用[4][5]を行っていたとされています。


証拠隠滅で破壊される前の731部隊司令部
出典:Wikimedia Commons


証拠隠滅で破壊される前の731部隊司令部
出典;Тайна ≪Отряда 731≫


731部隊司令部本館の入り口


731部隊司令部本館の入り口 (トリップアドバイザー提供)


731部隊本部大楼 (トリップアドバイザー提供)


731部隊司令部本館の解説板

 現在、中国黒竜江省哈爾賓市には731部隊に関連した陳列館があります。以下の写真は陳列館の外観と内部の一例です。


石井 四郎(1892年6月25日 - 1959年10月9日)


出典:Wikipedia

 石井四郎は、日本の陸軍軍人、軍医。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任。最終階級は陸軍軍医中将。功四級、医学博士。防疫給水部731部隊の創設者として軍隊や戦災者、現地の病人に飲料水を提供し、感染症予防のワクチンを投与するなどの防疫活動や、連合国軍の対日本細菌戦に対抗する研究を行ったとされ、森村誠一著の『悪魔の飽食』の中では、人体実験を中国で行ったと告発されている。

1933年(昭和8年)3月、陸軍軍医学校において細菌学を教育する。

1934年(昭和9年)3月30日までの半年間、再び満洲に滞在。

1935年(昭和10年)、陸軍軍医中佐(二等軍医正)に昇進。

1936年(昭和11年)、東郷部隊が正式な部隊となる。東郷部隊を母体として関東軍防疫給水部を編成。防疫給水部は、戦災や災害時の防疫、および清潔な飲料水を兵士や被災者に供給する部署である。帝国陸軍の習慣によって部隊長の名を冠した「石井部隊」の通称名で呼ばれる。

1938年(昭和13年)8月、陸軍軍医大佐(一等軍医正)に昇進。

1939年(昭和14年)5月11日、ノモンハン事件勃発により、野戦防疫給水部長として出動。7月8日から10日間の予定で海拉爾、将軍廟方面にて防疫給水部隊の指導にあたる。細菌戦を実戦する。

10月1日、ノモンハンでの石井部隊の防疫成果が認められ、関東軍防疫給水部は第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初の感状を授与され、石井の顔写真付きで新聞報道でも取り上げられた。

1941年(昭和16年)3月、陸軍軍医少将に昇進。4月、陸軍の全部隊を対象に秘匿名称である通称号が導入されたのに伴い、関東軍防疫給水部本部は「満洲第731部隊」の通称号が割り当てられる。

1942年(昭和17年)8月1日、関東軍防疫給水部を離れる。

常石敬一によれば、731部隊が石井の指揮の下で細菌兵器を実戦で使用していたと主張している。

追記
 石井四郎は 四郎 というくらいで四男、そして、次男と、三男も731部隊で働いていた。長男は日露戦争で戦死とある。

 中国人の犠牲者の遺族が石井家を訪れたときの石井家の対応がケンモホロロであることがテレビ朝日のザ・スクープ取材班の追跡取材で分かっている。家族全員が戦争にかかわりかつ4人のうち3人の息子が731部隊というのももの凄い。

千葉県山武郡芝山町(加茂)の旧家主、父・石井桂と母・千代の間に四男として生まれる{ 長男・彪雄は日露戦争で戦死し、次男・剛男は陸軍嘱託で731部隊の特別班班長【マルタの管理】、 三男の三男(みつお)は陸軍技師で731部隊の動物班の班長}。


千葉県山武郡芝山町(加茂)   出典:グーグルマップ


千葉県山武郡芝山町(加茂)   出典:731部隊 TBS知ってるつもり


石井四郎宅家跡地、女性は中国人遺族
出典:テレビ朝日ザ・スクープ(731部隊・細菌戦の真実)


石井四郎墓石前、女性は中国人遺族
出典:テレビ朝日ザ・スクープ(731部隊・細菌戦の真実)


◆731部隊の沿革

 1932年(昭和7年)8月に陸軍軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた[6]。

 1936年(昭和11年)4月23日、当時の関東軍参謀長 板垣征四郎によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」[7]で関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足した。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。

 この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成されている。1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した[6]。

 1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部(通称号:満州第659部隊)」に改編された。そのうちの本部が「関東軍防衛給水部本部(通称号:満州第731部隊)」である。

 731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた[6]。

 厚生労働省の集計によれば、1945年(昭和20年)の終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)だった[8]。この間、1942年8月から1945年3月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られている[9]。

 1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判で戦争犯罪人として訴追された[10]。


731部隊石井四郎 (トリップアドバイザー提供)

防疫活動

 1939年(昭和14年)に発生したノモンハン事件では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行っている。石井四郎が開発した石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。

 最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功章が贈られた。

 一方で、ノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある[11]。

つづく

脚注
1. ^ 『在満兵備充実ニ関スル意見』(1936年4月23日付 板垣征四郎関東軍参謀長から梅津美治郎陸軍次官宛書類)の「其三、在満部隊ノ新設及増強改編」の項目第二十三には「関東軍防疫部の新設増強予定計画の如く昭和十一年度に於いて急性伝染病の防疫対策実施および流行する不明疾患其他特種の調査研究 ならびに細菌戦準備の為関東軍防疫部を新設す 又在満部隊の増加等に伴い昭和十三年度の以降其一部を拡充す関東軍防疫部の駐屯地は哈爾賓附近とす」とあり、関東軍防疫給水部の設立目的のひとつが「細菌戦準備」であったことがはっきりと明記されている。

2.^ a b ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」廣済堂出版、1997年7月。ISBN 978-4-331-50590-8

3.^ 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 ISBN
4-06-149265-9 1995年、92-133頁。

4.^ 秦郁彦 『昭和史の謎を追う (上)』文春文庫、ISBN 4-16-745304-5 1999年、561頁。

5.^ 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年、135-163頁。

6.^ a b c 秦(1999)、544-546頁。

7.^ 国立公文書館アジア歴史資料センター「在満兵備充実に対する意見」

8.^ “731部隊員は3560人 終戦直前、厚労省が集計”. 共同通信社. 47NEWS. (2003年9月4日). オリジナルの2013年6月30日時点によるアーカイブ。 2012年11月25日閲覧。

9.^ 秦(1999)、567頁。

10.^ a b 秦(1999)、578-579頁。

11.^ 秦(1999)、556-558頁。


つづく