ウズベキスタン現地予備調査 サマルカンド1日目 ティムール朝・ウズベキスタンの歴史 Timur ertalab, O'zbekiston tarixi 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2015年3月22日 独立系メディア E−wave Tokyo 無断転載禁 Copyright by T.Aoyama & K.Ikeda |
サマルカンドのまちを視察する前に、ティムール朝について版図をもとに概説しましょう。 中央アジアに関連した歴史上最大の帝国は、いうまでもなくモンゴル帝国です。モンゴル帝国の最盛期の領土分布を版図で見てみると以下のようになります。 モンゴル帝国 (1206年 - 1634年) モンゴル帝国は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家であり、中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス 、すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称していました。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』、その他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げましたた。最盛期の領土面積は約3300万km2で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていました。 ◆ティムール朝とその版図 ティムール朝(ウズベク語 : Temuriylar)は、中央アジアのトランスオクシアナ(現在のウズベキスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつと言えます。 ティムール朝は中央アジアからイランにかけて支配したイスラム王朝(1370年 - 1507年)です。したがって、ティムール朝の存在した歴史的期間は、モンゴル帝国 (1206年 - 1634年)とほぼ重なります。 ティムール朝の最盛期には、下の版図に見るように北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで広大な地域に及んでいます。 それらの地域は、モンゴル帝国の西南部地域に及んでいます。このように中央アジアから西アジア、南アジアに及ぶ広大な地域を覇権していたことから創始者ティムール在位中の国家は、ティムール帝国と呼ばれることが多くなっています。 往事のウズベキスタンの領土(版図) ティムール帝国 (1307年 - 1507年) 出典:Wikipedia ティムール朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員でした。 ティムール一代の征服により、上述の大帝国を実現しますが、死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小しました。ティムール朝の衰亡後、北からウズベク人が侵入し、ウズベク3ハン国と呼ばれるブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国を立てます。 そして15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残りました。 これらは最終的に16世紀初頭にウズベクのシャイバーニー朝によって中央アジアの領土を奪われますが、ティムール朝の王族の一人バーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガール帝国を打ち立てています。ちなみに、ムガール」という名称は「モンゴル」に由来しています。 ムガール帝国(英語:Mughal Empire)は、16世紀初頭から北インド、17世紀末から18世紀初頭にはインド南端部を除くインド亜大陸を支配し、19世紀後半まで存続したトルコ系イスラーム王朝(1526年 - 1858年)です。首都はデリー、アーグラなど。ムガル朝(Mughal dynasty)とも呼ばれています。 ムガル帝国 (1526年 - 1858年) 一方、ティムール朝のあとに出現したオスマン帝国は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国で、15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしその首都であったコンスタンティノポリス(コンスタンチノーブル)を征服しました。 オスマン帝国の首都となったコンスタンチノーブルは、やがてイスタンブールと通称されるようになります。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んでいます。 オスマン帝国 (1299年 - 1922年) ティムール王朝滅亡後、ウズベク3ハン国と呼ばれるブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国の3つの王国は、19世紀に北からのロシア帝国に征服されます。 ロシア革命後はソビエト連邦下の共和国となります。さらにその後、ソビエト共産党政府の統治下に入り、ウズベク・ソビエト社会主義共和国となりました。
1966年4月、タシュケントを震源として市内では震度八をも記録する大地震が起こり、市内の建物のおよそ2/3が倒壊するという惨事となりました。 1991年のソ連崩壊により、ウズベク・ソビエト社会主義共和国はウズベキスタン共和国として独立し、同時に独立国家共同体(CIS)に加盟しました。独立後は、現在に至るまでイスラム・カリモフ大統領が権力を集約し、長期政権となって統治しています。 なお、上記の4帝国(朝)のうち、ティムール朝と領土及び時期が重なるのは、モンゴル帝国と言えます。 下の地図は、現在のウズベキスタンを中心とした中央アジア、西アジア、南アジア諸国の版図です。 現在の中央アジア、コーカサス、西アジアの諸国 出典:グーグルマップ <総括> 以上を総括すると、ティムール帝国は、チンギス・カンのモンゴル帝国 (1206年 - 1634年)の一幹部であったティモールが創設した王朝、帝国(1307年 - 1507年)です。 ティムール一代により、大帝国を実現するものの、アムール・ティムールの死後、息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂、縮小しました。具体的にはティムール朝の衰亡後、北からウズベク人が侵入し、ウズベク3ハン国と呼ばれるブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国を立てます。 他方、ティムール朝の一部、バーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガール帝国を打ち立てています。これが現在のインドのかなりの部分となっています。 現在のウズベキスタンは、ウズベク3ハン国(ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国)を19世紀に北からのロシア帝国に征服されます。 ロシア革命後はソビエト連邦下の共和国となります。さらにその後、ソビエト共産党政府の統治下に入り、ウズベク・ソビエト社会主義共和国となりました。ソ連統治時代に統合した国家であり、西トルキスタンの主要国家と言えます。なお、東トルキスタンは新疆ウイグル自治区です。 1991年のソ連崩壊後、当該国家は、ウズベク・ソビエト社会主義共和国からウズベキスタン共和国として独立し、同時に独立国家共同体(CIS)に加盟しました。 つづく |